縁覚
縁覚(えんがく、pratyekabuddha、paccekabuddha)とは、仏教やジャイナ教において、師なくして独自にさとりを開いた人をいいます。旧訳ではサンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、辟支仏(びゃくしぶつ)と訳します。また独覚とも漢訳されます。
仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁覚といいます。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟角喩独覚とに分けられます。大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、声聞とともに二乗と呼んで下に見ています。
特に天台宗では、仏の世で十二因縁を観じて覚ったものを「縁覚」、無仏の世で飛花落葉などの外縁を観じて覚ったものを「独覚」と区分しています。
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阿弥陀如来
阿弥陀如来(あみだにょらい)、梵名 アミターバ(amitaabha)あるいはアミターユス (amitaayus)は、大乗仏教の如来の一つ。阿弥陀仏・弥陀仏などともいいます。
三昧耶形は蓮の花(金剛界曼荼羅では開花した蓮華、胎蔵曼荼羅では開きかけた蓮華)。種子(種字)はキリーク(hriiH)。
梵名の「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」、「アミターバ」は「無限の光をもつもの」の意味で、彼が時間と空間の制約を受けない超人である事を示しています。これを意訳して無量寿仏/無量光仏とも呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされています。西方にある極楽浄土という仏国土を持っています。
像形
造形化された時は、装身具を着けない質素な服装の如来形で、定印・説法印・施無畏印・与願印を組み合わせた九品来迎印を結ぶ姿で表されることが多いです。阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を配しています。密教においては、五仏(五智如来)の一如来として尊崇されています。
浄土三部経
『仏説無量寿経』によると、一切の衆生救済のために自ら仏の位を降りて菩薩となり、世自在王仏の元で法蔵と名乗り修行をしました。非常に長期間衆生の救済の思索をめぐらし(五劫思惟(ごこうしゆい))、浄土への往生の手立てを見出したことにより仏となった報身仏です。衆生救済に関して48の願い(四十八願)を立て、特に浄土教において第十八願を「本願」と呼んで重要視しています。また、現在も説法をしていると説かれています。『仏説阿弥陀経』では、大宇宙のガンジス河の砂の数ほどの諸仏から賞賛されています。曰く、「阿弥陀仏のお力はずば抜けて素晴らしく、我々罪悪の重い衆生の救済に対して、他の諸仏が背相を見せたにも関わらず、阿弥陀仏お一人が本願を立てられて一切衆生の救済をお約束された。一切の諸仏も最後には、阿弥陀仏に依らなければ、仏の悟りを開く事は出来なかった」と。これを語源とする他力本願という言葉は、一般には「ムシのいい、他人への依存」「無責任」という意味でも広く用いられています。しかしここで言う他力とは本来阿弥陀如来の力を指し、彼の力以外の(釈迦の力を含めた)すべての力を指して自力と言うのです。
浄土真宗
特に浄土真宗においては、煩悩具足の凡夫は、阿弥陀如来の本願、すなわち他力本願によって「のみ」往生を遂げることができるとし(絶対他力)、仏である釈迦の力すら「自力」として否定されています。
チベット仏教
チベット仏教では、無量寿仏と無量光仏は区別されています。日本の阿弥陀如来は,後者に近いです。また、ゲルク派第二位のパンチェン・ラマは無量光仏の化身とされています。チベット死者の書によれば,(大日如来、阿閦如来、宝生如来に続いて)死後の4日目に魂の救済に現れるとされています。
異説(ゾロアスター教との関係)
大乗仏教で登場した仏尊であり、その起源はゾロアスター教などのイラン系の信仰に由来するという説もあります。それによると、光明の最高神アフラ・マズダーが無量光如来、無限時間の神ズルワーンが無量寿如来の原型とされています。また、西方極楽浄土は、ゾロアスター教の起源であるイラン地方、もしくは肥沃で繁栄した古代バビロニア地方が背景になっているとする説もあります。
日本語への影響
鎌倉時代以降、日本では浄土教の隆盛を受けて、阿弥陀如来に関連した単語や言い回しが登場するようになります。
十八番(おはこ)
前述のとおり、浄土教において四十八願のうち第十八願を本願として重要視することから、もっとも得意なことを指して言います。
あみだくじ
現代のものは平行線ですがかつては放射線状であり、阿弥陀如来像の光背に似ていることからこういわれました。
他力本願
努力しないことや無責任であることを表現するのに使われていますが、本来の意図とは前述のとおり違う使われ方をしています。
真言
小咒
オン・アミリタ・テイゼイ・カラ・ウン。
大咒(無量寿如来根本陀羅尼)
ノウボウアラタンノウトラヤーヤノウマクア・リヤミターバーヤタタギャタヤ・アラカテイサンミャクサンボダヤータニャ・タオンアミリテイアミリトウドバンベイ・アミリタサンバンベイアミリタギャ・ラベイアミリタシッテイアミリタテイ・セイアミリタビキランデイアミリタ・ビキランダギャミネイアミリタギャ・ギャノウキチキャレイアミリタドン・ドビソワレイサラバアラタサダニエイ・サラバキャラマキレイシャキシャヨウギャレイ・ソワカ。
垂迹神
熊野権現
八幡神
日本における主な仏像
国宝
中尊寺像 (岩手県西磐井郡平泉町)(金色堂安置諸仏のうち)
高徳院像 (神奈川県鎌倉市)(鎌倉大仏)
平等院像 (京都府宇治市)(定朝作、鳳凰堂安置)
広隆寺像 (京都府京都市)(講堂安置)
仁和寺像 (京都府京都市)(阿弥陀三尊像のうち、金堂安置)
法界寺像 (京都府京都市)(阿弥陀堂安置)
三千院像 (京都府京都市)(阿弥陀三尊像のうち、往生極楽院安置)
清凉寺像 (京都府京都市)(阿弥陀三尊像のうち、旧棲霞寺本尊)
浄瑠璃寺像 (京都府木津川市)(九体阿弥陀)
法隆寺像 (奈良県生駒郡斑鳩町)(阿弥陀三尊像のうち、橘夫人厨子安置)
浄土寺像 (兵庫県小野市)(阿弥陀三尊像のうち、快慶作、浄土堂安置)
仏典
無量寿経
『仏説無量寿経』
観無量寿経
阿弥陀経
宗派
融通念仏宗
浄土宗
浄土真宗
時宗
関連のある僧侶
世親(天親)
曇鸞
道綽
善導
良忍
源信 (僧侶)
法然
親鸞
蓮如
一遍
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秋山之下氷壮夫
秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびをとこ)は日本の神。
八十神がいとめることのできなかった伊豆志袁登売神(いづしをとめのかみ)を兄の春山霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)と争い賭けをしたこと、結局は春山霞壮夫の母親の協力により伊豆志袁登売神と結ばれなかったこと、秋山霞壮゛夫が約束をやぶって賭けを反故にしようとした時も春山霞壮夫の母親の協力をもってその賭けを成立させられたことなどが古事記の応神天皇の条に記されています。秋山下氷壮夫とは、秋の山に霜がおりている様を神格化したもの、と言われています。「春」の祭祀によって「秋」の豊穣が与えられることを象徴されています。
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穴太寺
穴太寺(あなおじ)は、京都府亀岡市にある寺院。山号を菩提山(ぼだいさん)と称し、本尊は薬師如来。この寺に安置される聖観世音菩薩は西国三十三箇所第21番札所となっています。天台宗。
「あなおおじ」「あのうじ」と読まれることもあり、「穴穂寺」「穴生寺」とも表記されました。
飛鳥時代後半の705年(慶雲2年)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる丹波地方の古刹です。境内には 江戸時代につくられた本堂・多宝塔を借景にした日本庭園があります。
本堂内陣に鎌倉時代の作とされる木彫釈迦涅槃像が安置され、体の部分をさわると参拝者の病気がよくなると伝えられています。
同寺では1月3日、「福給会」が催されます。これは、300年以上続く伝統行事で、1から33番までの札3000枚を本堂から撒き、拾った番号によってくじが行なわれます。3枚だけ赤い札が入っており、それを拾った人は1年間幸せに過ごせるといいます。
文化財
本堂 - 1735年再建、京都府指定文化財
多宝塔 - 1804年再建、京都府指定文化財
仁王門 - 江戸時代中期再建、京都府登録文化財
鎮守堂 - 京都府登録文化財
念仏堂 - 京都府登録文化財
鐘楼 - 京都府登録文化財
方丈・庫裏 - 京都府登録文化財
方丈表門 - 京都府登録文化財
木造聖観音立像(伝感世作) - 国の重要文化財
穴太寺観音縁起 - 京都府指定文化財
穴太寺庭園 - 江戸時代中期作庭、京都府指定文化財名勝
穴太寺伽藍 - 亀岡市指定文化財
所在地
〒621-0029 京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46
西国三十三箇所 隣
善峯寺 - 穴太寺 - 總持寺
周辺情報
金剛寺(応挙寺)(徒歩4分)
小幡神社(徒歩3分)
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荒魂・和魂
荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことです。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂です。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きです。神の祟りは荒魂の表れです。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面です。神の加護は和魂の表れです。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、別に祀られていたりすることもあります。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきました。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっています。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされています。
和魂はさらに幸魂(さきたま、さちみたま、さきみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられます。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きです。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きです。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられます。
また、人間の心は、天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという考え方があり、一霊四魂(いちれいしこん)と呼ばれます。
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回向
「パリナーマ」とは、「転回する」「変化する」「進む」などの意で、大乗仏教の特徴をなす考え方です。中国では、回は回転(えてん)、向は趣向(しゅこう)。自分の修めた善行の結果が他に向って回(めぐ)らされて所期の期待を満足することをいいます。善行の報いは本来自分に還るはずですが、大乗仏教においては一切皆空であるから、報いを他に転回することが可能となります。善行の結果を人々のためになるよう期待し、それを果すのを衆生回向といい、善行の結果を仏果の完成に期待するならば、それを果すことは仏道への回向です。いわば、自分自身の積み重ねた善根功徳を相手にふりむけて与えることを回向といいます。寺院や僧侶に読経をたのむときに、廻向料などと表書きするのは、この理由によるものです。
回向の心をもって修行する段階を十に分け十回向位とし、悟りへの重要な修行過程とします。自己の善根を仏果に向け、自我への執着を除去しようとします。善根は常に自ら以外の方向に振り向けられて功徳となり、我執が除去されます。ここに回向の必然性があります。善根が積み重ねられて仏となるのではなく、すべての善根は回向されることに意味があります。
回向には、一般に(1)菩提回向 (2)衆生回向 (3)実際回向の三種を説いています。それぞれ菩提を趣向し、衆生に功徳を回施し、無為涅槃の趣求にふりむけるとしています。
世親は「礼拝、讃歎、観察、作願、回向」と五念門を説き、往生浄土のための行の中、自ら修めた諸功徳をすべての衆生に回向して、ともに浄土に往生して仏となることを重要な項目としてあげています。
他力回向
回向すべき善行を実行しえないという自己反省によって、法を仰ぎ、法の力を受け取ろうとします。そこで回向を他力とみて他力回向として、仏の側から衆生に仏の功徳が回向されるのが、浄土真宗でいう他力回向です。親鸞は、この回向について往相回向(おうそう)、還相回向(げんそう)の二種を説いています。
住相回向とは、自分の善行功徳を他のものにめぐらして、他のものの功徳として、ともに浄土に往生しようとの願いをもととして説かれています。親鸞の場合、浄土への往生のための善行はすべて阿弥陀仏の力によるのであって、阿弥陀仏がたてて完成した万徳具備の名号のはたらきによるとして、名号を回向されるといいます。
次に還相回向とは「還来穢国」といわれ、浄土へ往生したものを、再びこの世で衆生を救うために還り来たらしめようとの願いを言います。この利他のはたらきも、阿弥陀仏の本願他力の回向によるものです。具体的には、江戸時代讃岐の庄松という妙好人が「私が捨てた念仏を喜んで拾う者がいる」と言うように、称名の声を聞いた時に、浄土からこの我々に働きかけているすがたと感じて、それに応えて称名をするすがたを言いいます。
往相還相がともに阿弥陀如来の本願のままに衆生に回施され、衆生もこの阿弥陀如来と同じ悟りを開くことができるとします。これを他力回向と説いています。
回向文
回向文といって宗派によっては法華経にある「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」用いたり、また「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」というのもあります。これは、仏事の最後に唱えられ、仏事を行った功徳を自らだけのものにすることなく、広く有縁の人々に回向するために読誦されます。この意味で、寺や各家々で行われる仏事は、亡くなった人のためではなく、縁ある者すべてに向けての回向とします。
後者の回向文は、しばしば浄土系諸宗派で用いられますが、浄土真宗では「此功徳」を阿弥陀仏の功徳とします。
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薬師如来
薬師如来 (やくしにょらい)、梵名バイシャジヤ・グル(bhaiSajya-guru)は、大乗仏教における如来の一尊。薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)、または大医王仏とも称します。
三昧耶形は薬壷または丸薬の入った鉢。種子(種字)は尊名のイニシャルのバイ(bhai)。
薬師経
薬師如来が説かれている代表的な経典は、玄奘訳「薬師瑠璃光如来本願功徳経(薬師経)」と義浄訳の「薬師瑠璃光七佛本願功徳経(七仏薬師経)」があります。
薬師本願功徳経では、薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主で、菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったと説かれています。瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされています。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏として、如来には珍しく現世利益信仰を集めています。
密教との関係
顕教系の如来であり、日本の真言宗(真言密教)では本来あまり重視されていません。雑密系の別尊曼荼羅では中尊となる事も多いですが、純密の両界曼荼羅には居場所はありません。しかし伝統的に天皇家と結びつきが強かった天台宗(天台密教)では、薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主であることから、東の国の王たる天皇と結び付けられもしました。また東方の如来という事から阿閦如来とも同一視されます。さらに胎蔵大日如来と同体とする説がありますが、これには天台密教において、顕教での妙法蓮華経に説かれる久遠実成の釈迦如来=密教の大日如来との解釈と、釈迦如来の衆生救済の姿という二つの見方によるものです。
像容
像容は、立像・坐像ともにあり、印相は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やくこ)を持つのが通例です。ただし、日本での造像例を見ると、奈良・薬師寺金堂像、奈良・唐招提寺金堂像のように、古代の像では薬壷を持たないものも多い。これは、不空訳「薬師如来念誦儀軌」の伝来以降に薬壷を持つ像が造られるようになったと考えられています。単独像として祀られる場合と、日光菩薩・月光菩薩を脇侍とした薬師三尊像として安置される場合があります。また、眷属として十二神将像をともに安置することが多いです。薬師如来の光背には、七体または六体、もしくは七体の同じ大きさの像容があります。これは七仏薬師といって薬師如来とその化身仏とされています。
薬師如来の縁日は毎月8日です。これは、薬師如来の徳を講讃する「薬師講」に由来すると考えられています。
国分寺のほとんどは現在は薬師如来を本尊としています。
七仏薬師
義浄訳「薬師瑠璃光七仏本願功徳経(七仏薬師経)」や達磨笈多訳「薬師如来本願経」では、薬師如来を主体とした七尊の仏の本願と仏国土が説かれています。天台密教では、円仁から始まったとされる七仏薬師法が息災・安産をもたらすとして重要視され、8-9世紀には藤原摂関家で同法による安産祈願が行われました。
善名称吉祥王如来(ぜんみょうしょうきちじょうおうにょらい)
宝月智厳光音自在王如来(ほうげつちごんこうおんじざいおうにょらい )
金色宝光妙行成就王如来 (こんじきほうこうみょうぎょうじょうじゅおうにょらい )
無憂最勝吉祥王如来 (むうさいしょうきちじょうおうにょらい )
法海雲雷音如来 (ほうかいうんらいおんにょらい )
法海勝慧遊戯神通如来 (ほうかいしょうえゆげじんつうにょらい )
薬師瑠璃光如来 (やくしるりこうにょらい )
日本における造像例
現世利益的信仰が有力な日本においては、薬師如来は病気平癒などを祈願しての造像例が多いです。極楽往生を約束する仏である阿弥陀如来とともに、日本においてはもっとも信仰されてきた如来です。奈良・法隆寺金堂の薬師如来坐像は光背に推古天皇15年(607年)の銘がありますが、銘文中の用語や像自体の鋳造技法等から、実際の制作は7世紀後半と言われています。また、現世利益を司る数少ない如来である事から、延暦寺、神護寺、東寺、寛永寺のような典型的な(国家護持の祈りを担う)密教寺院においても薬師如来を本尊とするところが多いです。
日本における著名な薬師如来像
福島・勝常寺像(薬師三尊の中尊、坐像、平安時代前期、国宝)
京都・仁和寺(旧北院)像(坐像、平安時代、国宝)
京都・神護寺像(立像、平安時代初期、国宝)
京都・醍醐寺(上醍醐)薬師堂像(薬師三尊の中尊、坐像、平安時代前期、国宝)
大阪・獅子窟寺像(坐像、平安時代前期、国宝)
奈良・法隆寺金堂像(坐像、飛鳥〜奈良時代、国宝)
奈良・法隆寺講堂像(薬師三尊の中尊、坐像、平安時代中期、国宝)
奈良・唐招提寺金堂像(立像、奈良時代〜平安時代初期、国宝)
奈良・薬師寺像(薬師三尊の中尊、坐像、奈良時代、国宝)
奈良・新薬師寺像(坐像、平安時代初期、国宝)
奈良国立博物館像(坐像、平安時代前期、国宝)
奈良・元興寺(奈良市芝新屋町)像(立像、平安時代前期、国宝)
東照権現信仰
徳川時代、初代将軍徳川家康が神格化され、神君と呼ばれるようになり、僧天海などの働きもあって、朝廷より、「東照大権現」の名が下され、東照宮に祭祀されました。ここから東照権現信仰が始まり、この信仰では、徳川家康は薬師如来の仮の姿が日本に現れたものとし、神仏習合の形をとり神社神道形式で祭祀を行っています。
また、徳川家康は生母於大の方が鳳来寺(愛知県新城市)の本尊の薬師如来に祈願して誕生したと言われ、徳川家康は鳳来寺(愛知県新城市)の本尊の薬師如来が人間界に現れたものとも言われています。
薬師如来の真言
薬師如来の真言は、小咒が「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」(oM huru huru caNDaali maataGgi svaahaa)であり、これは無能勝明王(ハヤグリーヴァ)の真言と合致します。
大咒は「ノウモ バギャバテイ バイセイジャ クロ ベイルリヤ ハラバ アラジャヤ タタギャタヤ アラカテイ サンミャクサンボダヤ タニヤタ オン バイセイゼイ バイセイゼイ サンボリギャテイ ソワカ」であり、薬師本願功徳経に説かれています。
小咒に対する考察
薬師如来の小咒は原始的なインド、ないしアジアの風習を感じさせる意味合いをもっています。この小咒を訳すと「オーム (聖音)、取り払え、チャンダーリーよ、マータンギーよ、成就せよ(スヴァーハー)」となります。「取り払え」とは疫病を取り除くこと、チャンダーリーとマータンギーは屠殺を生業とする一族の女性名ですが、本来は彼らインドの下層民族の崇めた女神の名でもあります。「スヴァーハー」は、本来は祭火に投じる供物の意味。後に神格化されて火神アグニの妻とされ、供物を捧げて願いの成就を祈願する際の掛け声となりました。
チャンダーリーやマータンギーは、汚穢の民の崇める女神として、上層階級からは蔑視あるいは危険視されていました。しかし敢えてそんな女神に祈る事で、彼女たちの司る疫病などの災いから逃れられると考えられたのです。疫病をもたらす荒神に呪文をとなえて逃れるという点は、日本における「蘇民将来」と似た性質をもっています。
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飛鳥寺
所在地 奈良県高市郡明日香村飛鳥682
位置 北緯34度28分43.14秒 東経135度49分12.64秒
山号 鳥形山
宗派 真言宗豊山派
本尊 釈迦如来(飛鳥大仏、重要文化財)
創建年 6世紀末頃
開基 蘇我馬子
正式名 鳥形山 安居院(現在の公称)
別称 法興寺、元興寺(共に旧法号)
札所等 新西国三十三箇所9番
文化財 銅造釈迦如来坐像(重要文化財)
飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺の後身です。この寺にはいくつもの呼び名があります。すなわち、蘇我馬子が建立した寺院の法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、法興寺中金堂跡に現在建つ小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)ですが、「飛鳥寺」の呼称は江戸時代の紀行文などにも見え、「飛鳥寺式伽藍配置」など学術用語にも使われています。
安居院は真言宗豊山派に属します。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子です。山号を鳥形山(とりがたやま)と称しますが、古代の寺院には山号はなく、後になって付けられた山号です。なお「鳥形山」は寺の北東、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)のある山を指します。
起源と歴史
創建
現在の飛鳥寺の前身である法興寺は、蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、明日香村豊浦の豊浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び、日本最古の本格的仏教寺院です。
『日本書紀』によると、法興寺は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものです。馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い、無事に勝利したので、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に寺を建てたといいます。
一方、天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には、発願の年は『書紀』と同じながら、内容の異なる記載があります。『縁起』によると、丁未年(587年)、「百済の客」が、当時の日本には尼寺しかなかったので、法師寺を作るべきであることを上申し、用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたといいます。(当時の日本には百済に留学した善信尼などの尼はいましたが、日本人の正式の男僧はいなかったと見られます。)
『書紀』によれば、翌崇峻天皇元年(588年)、百済から僧と技術者が派遣され、飛鳥の真神原の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこおやこのは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められました。『書紀』の崇峻天皇5年(592年)の条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とあり、整地工事や木材の調達が終わって、本格的な造営が始まったのはこの年からとする説もあります。
『書紀』の推古天皇元年(593年)正月十五日の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の正月十六日に「刹柱を建てた」とあります。なお、昭和32年(1957年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されています。
『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事があります。しかし、後述のように法興寺本尊の釈迦三尊像が完成したのはそれから少なくとも9年後のことであり、寺は完成したが、9年間は本尊が存在しなかったということになってしまいます。この点については研究者によってさまざまな解釈があり、一説には推古天皇4年(596年)にはまず塔が完成し、他の堂宇はその後順次建立されたのではないかといいます。
昭和31〜32年(1956 - 1957年)の発掘調査の結果によれば、当初の法興寺は中心の五重塔を囲んで、中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の壮大な伽藍でした。
法興寺中金堂本尊の釈迦三尊像について、『書紀』は、推古天皇13年(605年)に造り始められ翌推古天皇14年(606)完成、作者は鞍作鳥(くらつくりのとり)であるといいます。なお、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には乙丑年(605年)に「敬造」(謹んで造るの意)し、己巳年(609年)に「畢竟」(造り終わるの意)とあります。
大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も内外の信仰を集め、天武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて、朝廷の保護を受けるようになりました。これに関連して飛鳥寺近くの飛鳥池遺跡からは大量の富本銭が発見され、その位置づけを巡って(飛鳥寺との関係も含めて)様々な議論が行われています。
平城遷都以後
都が平城京へ移るとともに法興寺も現在の奈良市に移転し、元興寺となりましたが、飛鳥の法興寺も存続し、本元興寺と称されました。建久7年(1196年)の火災による焼失後、中世以降の衰退は著しく、江戸時代には仮堂一宇を残すのみでした。江戸時代の学者本居宣長の『菅笠日記』には、彼が明和9年(1772年)飛鳥を訪ねた時の様子が書かれていますが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったといいます。
現在、参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑は寛政4年(1792年)のもので、当時すでに「飛鳥大仏」と呼ばれていたことがわかります。現・本堂は江戸末期の文政8年(1825年)に大坂の篤志家の援助で再建されたもので、創建当時の壮大な伽藍をしのぶべくもありません。しかし、発掘調査の結果、現在の飛鳥寺本堂の建つ場所はまさしく蘇我馬子の建てた法興寺中金堂の跡地であり、本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、補修が甚だしいとはいえ、飛鳥時代と同じ場所に安置されていることがわかりました。日本最古の寺院・法興寺は、衰退したとはいえ、21世紀の今日までその法灯を守り続けているわけです。
札所
新西国三十三箇所観音霊場第9番
文化財
銅造釈迦如来坐像(国の重要文化財)−飛鳥寺(安居院)の本尊。飛鳥大仏の通称で知られます。
先に述べたとおり、7世紀初頭、鞍作鳥の作とされます。鞍作鳥は、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の作者である「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と同一人物とみるのが一般的理解です。
当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずですが、両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代・建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けており、当初の部分は顔の上半分、左耳、右手の第2・3・4指に残るのみだといわれます。
亀裂の入った部分を粘土で埋め、紙を張って墨を塗った部分などがあり、大幅な補修が加えられていることは確かで、当初部分がどの程度残存しているのか、正確にはわかっていません。
右手の第2・3・4指については、掌の部分にほぞ差しされていることがエックス線撮影によって確認されています。
アーモンド形の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られます。体部のほとんどが後補とみられますが、胸前に紐の結び目を表す服制は古様であり、当初像の表現を踏襲している可能性があります。
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現人神
現人神(あらひとがみ)は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉です。現御神(あきつみかみ)、現神(あきつみかみ)明神(あきつみかみ)とも言います。荒人神とも書きます。
また、生きている人間でありながら、同時に神であるという語義でも用いられることがあります。
主に第二次世界大戦終結以前に、天皇の呼称として用いられました。大日本帝国が第二次世界大戦で敗戦して以降は、天皇の「人間宣言」によってその神格性は架空のものとして否定され、公の場で「現人神」と言う呼称を用いられる事は無くなりました。
ただし、このような詔書解釈には現在でも日本における右翼・保守派の一部は疑義を抱き、天皇を「現人神」として神聖視しています。
なお現人神とは、必ずしも天皇には限りません。たとえば、祭祀を通して神霊と一体となった神官が現人神として敬われることもあります。古くは現人神という生き神信仰は全国各地にあったと思われます。
ちなみに、東郷平八郎や犬養毅などは生きながらにして神と呼ばれましたが、あくまでそれは「普通の人とは比べものにならないくらい偉い人」ぐらいのニュアンスであり、彼らを正確な意味で現人神と呼ぶことはできません。
民俗学的側面
古代国家の成立において、王の権力はしばしば、神話によって装飾され、「王こそが神である」とする様式が生まれました。特に国家の規模が拡大する上で、王が神聖であれば、それを打ち倒して権力を収奪する行為は、神罰が当たる物として恐れられる事により、また人を使役する場合に於いては、理不尽な命令であっても、やはり逆らえば神罰が下るとしておけば、それに逆らう者が無くなるといった効果を期待しました。
特にこのような成立は国家という規模の発生に於いては普遍的なものであり、洋の東西を問わず似たような事例には事欠きません。よく知られた所では古代エジプトや古代ギリシア・インカ文明・西欧の王侯や貴族の制度・古代から近代までの日本に到るまで文化的な連続性が無いにも関わらず、似たような経路による発展が見られます。
これらの文明系では、王は死後に神に戻るとされ、その遺骸は恭しく埋葬され、また肉体は滅んでも精神(霊)は続くと考えられたため大規模な墳墓が残され盛大に祀られる傾向が見られます。
概念の変遷
奈良朝頃の詔(宣命)では「現御神と……しろしめす」のように「と」が付いて「しろしめす」を修飾する用例が多くあります。
『万葉集』には柿本人麻呂の歌として「皇(すめろぎ)は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほり)せすかも」とあります。
近代では例えば「国体の本義」(1935年)において次のように用いられています。
天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂(いわゆる)絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏(かしこ)き御方であることを示すのである。
1941年に文部省が発行した修身の教科書(小学校二年生用)には、「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ神ノ国」「日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤクエライ国」と書かれ、陸軍中将であった石原莞爾の『戦争史大観』(1941年)には「人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。」「現人神たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむる」とあります。本書は用紙統制・出版統制が行われている中、秘密出版ではなく、公許の物として出版された著作です。
国外の現人神
まずチベットでのダライ・ラマおよびパンチェン・ラマなどが挙げられます。またネパールのカトマンズでは特定の条件下で生まれた幼女を現人神(クマリ)として崇め神輿に乗せて練り歩くが、彼女が初潮を迎えると神としての力を失うと信仰されています。
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伊豆山神社
所在地 静岡県熱海市伊豆山上野地
主祭神 火牟須比命 伊邪那伎命 伊邪那美命
社格等 国幣小社、別表神社
創建 考昭天皇御代
例祭 4月14日、4月15日 4月16日
伊豆山神社(いずさんじんじゃ)は、静岡県熱海市伊豆山上野地、JR熱海駅の北東約1.5kmにある神社。現在の祭神は伊豆山神(火牟須比命(ほのむすひのみこと)、伊邪那伎命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと))。全国各地に点在する伊豆山神社や伊豆神社(いずじんじゃ)、走湯神社(そうとうじんじゃ、はしりゆじんじゃ)などの起源となった事実上の総本社格です。
歴史
創建時期は定かではないが、社伝によれば孝昭天皇の御代(紀元前5世紀〜紀元前4世紀)と言われています。古くは以下のような名で呼ばれていました。
伊豆大権現(いずだいごんげん)
伊豆御宮(いずおんみや)
伊豆山(いずさん)
走湯大権現(そうとうだいごんげん、麓の海岸沿いに点在した温泉および間歇泉に由来し、推古天皇3年(594年)に朝廷から贈られた名であるとされています)
走湯山(そうとうさん)
火牟須比命神社(ほのむすひじんじゃ)
当初は日金山(ひがねさん、久良地山とも呼ばれる、静岡県熱海市、現在の東光寺(とうこうじ)所在地で熱海峠のほど近くの山上)にありました。その後の変遷については諸説がありますが、本宮山(ほんぐうさん、静岡県熱海市伊豆山、現在の本宮神社所在地)を経て、承和3年(836年)に甲斐国の賢安なる僧が現在地へ遷座させたとの説が有力です。
明治維新の際の神仏分離令により寺を分離して伊豆山神社と称するまでは、天台宗や真言宗との関わりが深い典型的な神仏習合であり、現在地へ遷座して以降は主に、高野山真言宗である般若院(はんにゃいん、現在は同じ伊豆山地区の別の場所にあります)の別当寺と伊豆大権現とが等しく祀られていました。
しかし、関係勢力の主導権争いなどによって度々祭神や由緒が改竄されたとみられること 、地区全体が有史以来数度にわたって沈下し、山麓の摂社や末社、門前町の一部などは海底遺跡化していること 、神仏分離の際の混乱や数度にわたる火災などで史料が逸失していること、などから山の歴史の全貌は明らかとは言いがたく、今後の調査および研究が待たれます。
修験道の始祖とされる役小角は伊豆大島へ配流された折りに当社に通って修行した、とか、空海(弘法大師)が訪れて修行した、といった伝承もあるほど、多くの仏教徒や修験者が修行を積んだ霊場でした。後白河法皇勅撰の「粱塵秘抄」には「四方の霊験者は伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯耆の大山」と記されています。
一方で仁徳天皇が勅願所としたとされることから歴代皇族の崇敬も篤く、清寧・敏達・推古・孝徳・後奈良の六天皇の勅願所となったと社伝に謳われており、特に後奈良天皇は自筆の般若心経一巻(重要文化財)を奉納しています。
源頼朝は平治の乱の後伊豆国に配流されたとき、当社に源氏再興を祈願しました。この間有力豪族の伊東祐親に追われて当社に身を寄せたり、小豪族の娘であった北条政子との逢瀬の場にするなど深い関わりを持ち、後に鎌倉幕府を開くとここを「関八州鎮護」と称えて多くの社領を寄進しました。南北朝時代の「寺領知行地注文」によれば、遠くは越州に至るまで数多くの知行地を所有していたとされます。
江戸時代に入ると山麓の阿多湊(または阿多美の郷)が湯治場として名高くなり、徳川家康をはじめ多くの大名や文化人たちが湯治がてら参詣に訪れました。徳川幕府からは加増も併せて三百石の朱印領が寄進されています。
神仏分離後の大正3年(1914年)、皇太子であった昭和天皇が当社に参拝、本殿脇に黒松一株を御手植され、昭和3年(1928年)の昭和天皇御大典の際に国幣小社に列しました。第二次世界大戦後に社格制度が廃止されて以降は別表神社とされ、宗教法人化されました。
文化財重
要文化財
木造男神立像
剣 無銘
紺紙金泥般若心経(後奈良天皇宸翰)
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盂蘭盆
盂蘭盆会(うらぼんえ、ullambana)とは、安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事です。これは『盂蘭盆経 』(西晋、竺法護訳)『報恩奉盆経 』(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説によるのもです。
語義
盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」とも音写されました。「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の義であるといわれ、これが倒懸(さかさにかかる)の意です。
近年、イランの言語で「霊魂」を意味するウルヴァン(urvan)が原語だとする説が出ていますが、サンスクリット語の起源などからすれば、可能性が高い説です。
目連伝説
一般にはこの「盂蘭盆会」を、「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などとよんで、今日も広く行なわれています。
この行事は本来インドのものではなく、仏教が中国に伝播する間に起こってきたものだと考えられます。現在、この「盂蘭盆会」のよりどころとしている『盂蘭盆経 』は、『父母恩重経』や『善悪因果経』などと共に、中国で成立した偽経であると考えられています。したがって、本来的には安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、それに、儒教の孝の倫理の影響を受けて成立した、目連尊者の亡母の救いのための衆僧供養という伝説が付加されたのだと考えられます。
盂蘭盆経に説いているのは次のような話です。
安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。
哀れに思って、釈尊に実情を話して方法を問うと、「安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行い、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも入った。
中国での盆会
この盂蘭盆会の中国での起源は随分古く『仏祖統紀 』では、梁の武帝の大同4年(538年)に帝自ら同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが伝えられています。『仏祖統紀』は南宋代の書物なので梁の武帝の時代とは、約700年の隔たりがあり、一次資料とは認め難いです。しかし、梁の武帝と同時代の宗懍が撰した『荊楚歳時記』には、7月15日の条に、僧侶および俗人たちが「盆」を営んで法要を行なうことを記し、『盂蘭盆経』の経文を引用していることから、すでに梁の時代には、疑経の『盂蘭盆経』が既に成立し、仏寺内では盂蘭盆会が行なわれていたことが確かめられています。
この行事が一般に広がったのは、仏教者以外の人々が7月15日 (旧暦)を中元といって、先祖に供物を供え、灯籠に点火して祖先を祭る風習によってだと考えられます。この両者が一つとなって、盂蘭盆の行事がいよいよ盛んになっていったと思われます。
南宋代になって、北宋の都である開封の繁栄したさまを記した『東京夢華録』にも、中元節に賑わう様が描写されていますが、そこでは、「尊勝経」・「目連経」の印本が売られ、「目連救母」の劇が上演され好評を博すほか、一般庶民が郊外の墓に墓参に繰り出し、法要を行なうさまも描かれています。
日本での盆会
日本では、推古天皇14年(606年)4月に、毎年4月8日 (旧暦)と7月15日に斎を設けるとあり、また斎明天皇の3年(657年)には、須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記され、その5年7月15日には京内諸寺で『盂蘭盆経 』を講じ七世の父母を報謝させたと記録されています。後に聖武天皇の天平5年7月(733年)には、大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中の恒例の仏事となって毎年7月14日 (旧暦)に開催し、孟蘭盆供養、盂蘭盆供とよびました。
奈良、平安時代には毎年7月15日に公事として行なわれ、鎌倉時代からは「施餓鬼会」(せがきえ)をあわせ行ないました。 また、明治5年(1872年)7月に京都府は盂蘭盆会の習俗いっさいを風紀上よくないと停止を命じたこともありました。
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釈迦如来
釈迦如来(しゃかにょらい、しきゃじらい)または釈迦牟尼仏は、仏教の開祖釈迦〔姓名:瞿曇悉達多(クドンシッタルタ)梵語:Gautama siddhaartha(ガウタマ・シッダールタ)パーリ語:Gotama Siddhattha(ゴータマ・シッダッタ)〕を仏(仏陀)として敬う呼び方です。
上座部仏教における釈迦牟尼仏
上座部仏教(いわゆる小乗仏教)では、釈迦牟尼仏は現世における唯一の仏とみなされています。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(アラカン 如来十号の一)と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられました。
大乗仏教における釈迦牟尼仏
諸仏の一仏としての釈迦牟尼仏
大乗仏教では、釈迦牟尼仏(釈迦如来)は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏です。また、三身説では仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされています。
本仏としての釈迦牟尼仏
大乗仏教の中でも、日蓮宗・法華宗では宗派の本尊とする本仏が誰かという論争が有り、釈迦本仏論と日蓮本仏論の対立があります。このうち釈迦本仏論の本尊が本仏としての釈迦牟尼仏です。かつて天台宗においても唱えられていたようですが、今では日蓮宗・法華宗でしきりに論じられています。法華経の如来寿量品第十六に登場する無量長寿の釈迦牟尼世尊がこれに当たります。ユーラシア大陸の古代インドで活躍し肉体を持ったゴータマ・シッダルタ(釈迦)を指すのではなく、インドで肉体を持って生誕した前の悠久の昔から存在し、入寂の後も遥か将来まで存在して行くという信仰上の釈迦牟尼世尊です。無量の諸仏を迹仏とし、本仏釈尊のコピーに過ぎず、言わば、本仏釈尊を月とすれば諸仏は千枚田に映る千の月であるという論です。釈迦本仏論の宗門の信仰の対象です。久遠本仏とも呼び、日蓮宗総本山身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡)の寺名にもなっています。
なお、法華経では、釈迦如来はインドの菩提樹下で始めて覚ったのではなく五百塵点劫の遠い過去に成仏していたと説かれますが、涅槃経ではさらに未来について強く言及し、如来は常住不変であると説き、末法も最終的には方便説として否定されています。したがって法華経では久遠実成を説き、涅槃経では久遠常住を説いたとされています。
造形化された釈迦如来
釈迦如来は、インド以来、広く仏教の流布した地域で造像されるようになりました。その中心は、実在の釈迦の伝記としての仏伝を絵解き風に造形化したもの、あるいは、その一場面を単独で造像したものなどでした。
日本では、
誕生像
苦行像
降魔像
説法像
涅槃像
などとして造像が行なわれました。なかでも説法像が一番一般的な造形であり、説法印などによって、釈迦が法を説く姿を表現しています。
作例としては、奈良の法隆寺金堂、京都の蟹満寺の銅像、奈良の室生寺金堂、京都の大報恩寺の木像などが著名です。また、京都清凉寺の瑞像を模した清凉寺式釈迦如来も広範に流布している形式です。
釈迦三尊として祭壇に置かれる場合が多いです。脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩が多いです。法華宗・日蓮宗では三宝尊(一塔両尊)の形式がとられることが多いです。これは中心が題目の書かれた多宝塔(宝塔)で両脇に釈迦如来と多宝如来が祭祀者から見て左右に並び、その下に僧としての日蓮像があります。
真言
ノウマク・サンマンダ・ボダナン・バク
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阿加流比売神
阿加流比売神(あかるひめのかみ)は、日本神話に登場する神です。
『古事記』では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっています。『日本書紀』では意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追いかける童女(名の記述はない)のエピソードと同一です。記紀で国や夫や女の名は異なっていますが、両者の説話の内容は大変似通っています。
神話の記述
古事記
『古事記』では応神天皇記に記述があります。
昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たりました。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産みました。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていました。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会いました。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとしました。男が釈明をしても天之日矛は許しませんでしたので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえました。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になりました。
天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していました。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきました。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるといいます。
日本書紀
『日本書紀』では垂仁天皇記に記述があります。
都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行きましたが、牛が急にいなくなってしまいました。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまいました。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けました。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になりました。
都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしましたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまいました。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったといいます。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているといいます。
摂津国風土記逸文
『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述があります。
応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいました。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けました。
『古事記』の阿加流比売神の出生譚は、女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという卵生神話の一種であり、類似した説話が朝鮮に多く伝わっています。例えば高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)や新羅の始祖赫居世、伽耶諸国のひとつ金官国の始祖首露王の出生譚などがそうです。
『古事記』に記述された「難波の比売碁曾社」に相当する神社として大阪市東成区東小橋の比売許曽神社がありますが、現在、この神社の主祭神は大国主の娘の下照比売命とされています。他に、アメノワカヒコの従者であるアメノサグメと同一視されることもあります。
『摂津国風土記』逸文の比売島と同名の姫島神社が大阪市西淀川区姫島町にあり、阿迦留姫命(神社伝承による)が住吉大神とともに祀られています。ほかに、大阪市平野区平野東の赤留比売命神社(三十歩神社)にも阿加流比売神が祀られています。
「豊国の比売語曾社」は、大分県姫島の比売碁曾社です。『豊前国風土記』逸文にも、新羅国の神が来て河原に住んだので鹿春神というとあります。
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秋篠寺
所在地 奈良県奈良市秋篠町757
位置 北緯34度42分11.38秒
東経135度46分32.32秒
山号 なし
宗派 単立
本尊 薬師如来
創建年 奈良時代末期
開基 (伝)善珠、光仁天皇勅願
文化財 本堂(国宝) 伎芸天立像・薬師三尊像ほか(重要文化財)
秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院です。本尊は薬師如来、開基(創立者)は善珠とされています。山号はありません。宗派はもと法相宗、真言宗、浄土宗に属していましたが現在は単立です。伎芸天像と国宝の本堂で知られています。
起源と歴史
奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置します。奈良時代の法相宗(南都六宗の1つ)の僧・善珠が創建したとされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われていますが、創建の具体的な時期や事情については、たしかなことはわかっていません。『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入したとあるのが文献上の初見です(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。また、『日本後紀』には大同元年(806年)、桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われたことが見え、天皇家とも関連の深い寺院であったと思われます。
秋篠寺は保延元年(1135年)の火災により講堂以外の主要伽藍を焼失しました。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建っていますが、創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建です。宗派は当初の法相宗から真言宗、浄土宗に代わり、現在は単立となっています。
境内
拝観入口は東門になっていますが、本来の正門は南門です。南門と本堂の間には、雑木林の中に金堂、東西両塔の跡があり、それぞれ礎石が残っています。
本堂(国宝) - 鎌倉時代の建立で、当時の和様仏堂の代表作の1つです。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間としています。正面の柱間5間にはいずれも開口部(格子戸または窓)を設けています。全体に簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物です。内部には本尊薬師三尊像(重文)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重文)、帝釈天立像(重文)、伎芸天立像(重文)などが安置されています。
文化財
国宝
本堂
重要文化財
伝・伎芸天立像−本堂仏壇の向かって左端に立っています。瞑想的な表情と優雅な身のこなしで多くの人を魅了してきた像です。頭部のみが奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造による補作だが、像全体としては違和感なく調和しています。「伎芸天」の彫像の古例は日本では本像以外にほとんどなく、本来の尊名であるかどうかは不明です。なお、秋篠寺にはこの像と同様に、頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造の像があと3体あります。
薬師三尊像−本堂の本尊です。中尊の薬師如来が素木仕上げであるのに対し、脇侍の日光・月光(がっこう)菩薩像は彩色仕上げで作風も異なり、本来の一具ではないと思われますがいずれも平安時代の作とされています(中尊像については鎌倉時代以降の作とする見方もあります)。
帝釈天立像−頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。本堂に安置。
梵天立像−頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。奈良国立博物館に寄託。
伝・救脱菩薩立像−頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。奈良国立博物館に寄託。
木造地蔵菩薩立像−平安時代。本堂に安置。(1909年重文指定)
木造地蔵菩薩立像−平安時代。京都国立博物館に寄託。(1906年重文指定)
木造十一面観音立像−平安時代。東京国立博物館に寄託。
脱活乾漆像残欠(乾漆断片8片、心木2躯分)−奈良時代。奈良国立博物館に寄託。
木造大元帥明王立像−鎌倉時代。本堂西側の大元堂に安置。大元帥明王の彫像として稀有の作。6本の手をもち、体じゅうに蛇が巻き付いた忿怒像で、秋篠寺が真言密教寺院であった時代の作です。秘仏で、6月6日のみ公開されます。
アクセス
近鉄大和西大寺駅下車。
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天つ罪・国つ罪
天つ罪・国つ罪(あまつつみ・くにつつみ)とは、神道における罪の観念で、『延喜式』巻八「祝詞」に収録される大祓詞に対句として登場します。天津罪・国津罪とも書きます。
大祓詞による天つ罪・国つ罪は以下のものです。なお、大祓詞には罪の名前が書かれているだけで、特に国つ罪についてそれが何を意味するかについては、他の説もあります。
天つ罪と国つ罪
天つ罪
畔放(あはなち) - 田の畔を壊すこと
溝埋(みぞうめ) - 田に水を引くために設けた溝を埋めること
樋放(ひはなち) - 田に水を引くために設けた樋を壊すこと
頻播(しきまき) - 他の人が種を蒔いた所に重ねて種を蒔いて作物の生長を妨げること(種を蒔く事で耕作権を奪うこととする説もある)
串刺(くしさし) - 他人の田畑に自分の土地であることを示す杭を立てること
生剥(いきはぎ) - 生きている馬の皮を剥ぐこと
逆剥(さかはぎ) - 馬の皮を尻の方から剥ぐこと
糞戸(くそへ) - 祭場を糞などの汚物で汚すこと
国つ罪
生膚断(いきはだたち) - 生きている人の肌に傷をつけること
死膚断(しにはだたち) - 死んだ人の肌に傷をつけること
白人(しろひと) - 肌の色が白くなる病気
胡久美(こくみ) - 瘤ができること
おのが母犯せる罪 - 実母との相姦(近親相姦)
おのが子犯す罪 - 実子との相姦
母と子と犯せる罪 - ある女と相姦し、その後その娘と相姦すること
子と母と犯せる罪 - ある女と相姦し、その後その母と相姦すること
畜犯せる罪 - 獣姦
昆(は)ふ虫の災 - 地面をはう虫(昆虫やムカデ、蛇など)による災難
高つ神の災 - 雷など天災地変による災難
高つ鳥の災 - 空を飛ぶ鳥による災難
畜仆し(けものたおし)、蠱物(まじもの)する罪 - 家畜を殺し、その血で他人を呪う呪い(まじない)をすること
なお、『大神宮儀式帳』には川入(川に入って溺死すること)・火焼(火によって焼死する事)を国つ罪に追加しています。
天つ罪は、日本神話においてスサノオが高天原で犯したことで、農耕を防害する行為です。また、生剥・逆剥・糞戸には耕作者に不浄(不衛生な環境)をもたらしてその命を奪う呪術を兼ねているとする見方もあります。いずれにしても人為的に依らねば起こり得ない行為であり、クニ成立以前の共同体社会以来の犯罪と呼ぶべきものです。
国つ罪には、現在の観念では「罪」には当たらないものもありますが、これらは天変地異の兆し、あるいは、人が罪を犯したことによって起こる現象と説明されます。また、人間が疵を負ったり疾患にを被る(またこれによって死に至る)事や不適切な性的関係を結ぶ事はその人物の体から穢れ(ひいては天変地異)を引き起こす事になると考えられています。
天つ罪・国つ罪は宗教と政治と法制が密接であった古代日本における「罪」に対する考え方を窺い知るのに重要な考え方ですが、本居宣長以来指摘されているように天つ罪・国つ罪は宗教的に関わりの深い「罪」を挙げたものであり、これらに属しない世俗的な「罪」が存在していた事は『古事記』・『日本書紀』の中にも記されている事です。
折口信夫は、天つ罪は元は「雨障(あまつつみ)」で、梅雨の時期に農民が忌み蘢ることを指していたのですが、それが「天つ罪」とされて日本神話でスサノオが犯した行為と解釈され、それに対応するものとして国つ罪が作られたという説を唱えています。
現状
神社本庁およびその配下の神社で用いられる大祓詞では、国つ罪に差別的な表現があるとして、天つ罪・国つ罪の罪名の部分はカットされています。すなわち、現在の大祓詞で「天つ罪 国つ罪 許許太久(ここだく)の罪出でむ」となっている部分は、本来は「天つ罪と 畦放 溝埋 樋放 頻蒔 串刺 生剥 逆剥 屎戸 許多の罪を天つ罪と法(の)り別(わ)けて 国つ罪と 生膚断 死膚断 白人 胡久美 おのが母犯せる罪 おのが子犯せる罪 母と子と犯せる罪 子と母と犯せる罪 畜犯せる罪 昆ふ虫の災 高つ神の災 高つ鳥の災 畜仆し蟲物する罪 許多の罪出でむ」となっています。
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出雲大神宮
所在地 京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地
主祭神 大国主命 三穂津姫尊
社格等 式内社(名神大)・丹波国一宮・国幣中社
本殿の様式 三間社流造
例祭 10月21日
出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は、京都府亀岡市にある神社です。式内社(名神大社)、丹波国一宮。旧社格は国幣中社で、第二次世界大戦後は神社本庁などの包括宗教法人に属さない単立神社となっています。旧称を出雲神社。「元出雲」の通称があり、背後に「千年山」という神体山があることから「千年宮」とも呼ばれます。いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで杵築大社を称していたため、江戸時代末までは、出雲神社と言えばこの出雲大神宮を指していました。
吉田兼好が徒然草の第236段で記した「丹波に出雲と云ふ処あり」の「出雲」とはこの神社のことです。
また、地元でも混同されがちですが亀岡市下矢田町にある出雲大社京都分院とは別です。
祭神
現在は大国主命と三穂津姫尊(みほつひめのみこと)を主祭神とし、天津彦根命・天夷鳥命を配祀しています。大国主命は別名 三穂津彦大神・御蔭大神といいます。三穂津姫尊は高産霊尊の子で、大国主の国譲りの際に大国主の后となったと伝えられています。
当社の祭神については、天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の三柱とする説や、元々は三穂津姫尊一柱のみであるという説もあります。
大国主命については、出雲国の出雲大社(杵築大社)から勧請したとされますが、逆に出雲大社の方がこの神社から勧請を受けたものとする説もあり、俗に「元出雲」とも呼ばれています。『丹波国風土記』には、「元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」との記述があります。
歴史
創建の年代は不詳ですが、社伝では和銅2年(709年)10月21日に社殿を建立したと伝えられています。国史の初見は『日本紀略』の弘仁8年(818年)12月16日条「丹波国桑田郡出雲社、名神に預る」という記述であり、この時代にはすでに有力な神社になっていたことがわかります。延喜式神名帳では名神大社に列しています。正応5年(1292年)には神階が最高位の正一位まで昇りました。
社殿
現在の社殿は、足利尊氏によって貞和元年(1345年)に改修されたものと伝え、国の重要文化財に指定されています。
かつては36社の摂末社を有していましたが、兵火により失われ、現在は上の社、黒太夫社、笑殿社、春日社、稲荷社、崇神天皇社の6社があります。
文化財
重要文化財
本殿
木造男神坐像 2躯(附木造男神坐像 1躯)
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三界
三界(さんがい、tridhātu)は、欲界・色界・無色界の三つの総称です。三有ともいいいます。凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたものです。なお、仏陀はこの三界での輪廻から解脱しています。
欲界(kāmadhātu)
淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた有情の住む処。六欲天から人間界を含み、無間地獄までの世界をいいます。
色界(rūpadhātu)
欲界の2つの欲望は超越したが、物質的条件(色)にとらわれた有情が住む処です。この色界は禅定の段階によって、4つ(四禅天)に分けられ、またそれを細かく18天に分けます。
無色界(ārūpyadhātu)
欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界です。
『法華経』譬喩品に「三界は安きことなく、なお、火宅のごとし」というのは、迷いと苦しみのこの世界を、燃えさかる家にたとえたものです。
「三界に家なし」とは、この世界が安住の地でないことを意味し、後には女性の不安定な地位を表す諺になりました。
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天津神・国津神
天津神(あまつかみ)・国津神(くにつかみ)は、日本神話に登場する神の分類です。
天津神は高天原にいる、または高天原から天降った神の総称、それに対して国津神は地に現れた神々の総称とされています。ただし、高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主などは国津神とされています。
日本神話においては、国津神のほとんどが天津神に支配される対象として扱われています。ヤマト王権によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神に、皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったものと考えられています。特に国津神については、日本神話に取り入れられる際に変容し、元々の伝承があまり残っていないものも多いです。日本書紀ではしきりにある文として伝承等を引用している点から、その記録文書は後世で失われてしまったようです。
「つ」は現代語の「の」のことで、天の神・国の神という意味である。「天つ神」「国つ神」と書くこともあります。漢字二字で天津神を「天神」(てんじん)、国津神を「地祇」(ちぎ)とも言い、併せて「天神地祇」「神祇」と言います。
代表的な神々
どちらにも分類されない神々、たとえば戦国武将を神格化したもの(加藤清正の加藤神社・徳川家康の東照宮)や、祟り神とされた平将門・菅原道真公の天満宮などが比較的信仰の厚い神として斎き祀られています。土着や習合された信仰であったものが神格化し、神話には登場する事のない金比羅(ことひら)信仰などもあります。
天津神
神話においてイザナギやその神子三種の神器に象徴される三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)などが代表的です。稲荷信仰の神、倉稲魂尊はスサノオの子とされ、天津神といえます。
国津神
神話においてヤマタノオロチや大国主などが比較的有名です。
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