観音菩薩の効験
観音菩薩の効験
観音菩薩の効験をきわめて具体的に述べているのが、『観世音菩薩普門品』というお経です。
観音菩薩の威神力についてこう述べてあります。
まず、観世音菩薩の名を一心に称名することにより、火難、水難、風難、刀杖難、枷鎖難、怨賊難という七種類の人間の恐怖の対象となる災いが除かれ、次に淫欲(貪欲)、瞋恚、愚痴の三毒と呼ばれる人間の煩悩の最も大きなものが除かれます。
こういった、七難、三毒を除くことは、『抜苦』と説明される慈悲のうちの『悲』の働きですが、つぎに出されてくるのが、『与楽』と説明される『慈』の働きとしての具体的な例で、福徳智慧の男子や端正有相の女子を授かることになっています。
そして結論として「若し衆生有って、観世音菩薩を恭敬し礼拝せば、福むなしからず。是の故に衆生、皆まさに観世音菩薩の名号を受持すべし」と述べられています。
以上のことから考えても、なぜ観世音菩薩が、慈悲の菩薩として信仰されているのかという理由が明白であり、したがって、現世のさまざまなご利益を与えてくれる信仰対象として、古来、数多くの人々に拝まれてきたわけです。
観音菩薩の効験をきわめて具体的に述べているのが、『観世音菩薩普門品』というお経です。
観音菩薩の威神力についてこう述べてあります。
まず、観世音菩薩の名を一心に称名することにより、火難、水難、風難、刀杖難、枷鎖難、怨賊難という七種類の人間の恐怖の対象となる災いが除かれ、次に淫欲(貪欲)、瞋恚、愚痴の三毒と呼ばれる人間の煩悩の最も大きなものが除かれます。
こういった、七難、三毒を除くことは、『抜苦』と説明される慈悲のうちの『悲』の働きですが、つぎに出されてくるのが、『与楽』と説明される『慈』の働きとしての具体的な例で、福徳智慧の男子や端正有相の女子を授かることになっています。
そして結論として「若し衆生有って、観世音菩薩を恭敬し礼拝せば、福むなしからず。是の故に衆生、皆まさに観世音菩薩の名号を受持すべし」と述べられています。
以上のことから考えても、なぜ観世音菩薩が、慈悲の菩薩として信仰されているのかという理由が明白であり、したがって、現世のさまざまなご利益を与えてくれる信仰対象として、古来、数多くの人々に拝まれてきたわけです。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
観音菩薩
観音菩薩
観音菩薩(かんのんぼさつ 觀音菩薩)は、仏教の菩薩の一つであり、特に日本において古代より広く信仰を集めている尊格です。「観世音菩薩」または「観自在菩薩」ともいいます。「救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)」など多数の別名があります。
観音菩薩の名称の由来
サンスクリットではアヴァローキテーシュヴァラと言い、「あまねく」「見る、見た」「自在者」という語の合成語で、音韻変化を含んでいるとの説が現在では優勢です。玄奘三蔵による訳「観自在菩薩」はそれを採用していることになります。
その起源については、ゾロアスター教のアフラ・マズダーの娘、アナーヒターやインド神話のラクシュミーとの関連が指摘されています。
鳩摩羅什(くまらじゅう)の旧訳では観世音菩薩と言い、当時の中国大陸での呼称も、観世音菩薩でした。これには、観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)の趣意を取って意訳したという説があります。また、中央アジアで発見された古いサンスクリット語の『法華経』では、「Avalokitasvara」となっており、これに沿えば「avalokita 観」+「svara 世音」と解され、また古訳では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、異なるテキストだった可能性は否定できません。唐の二代目皇帝李世民の名から避諱により、”世”の文字は使用出来なくなったため、唐時代以後の中国大陸では、以後、観音菩薩と呼ばれるようになり定着しました。
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)以降の新訳では観自在菩薩と訳しています。
観音菩薩の信仰
観音経などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっています。また、般若心経の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっています。浄土教では観無量寿経の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩とともに安置されることも多く見られます。日本では飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されています。持物として水瓶(すいびょう)を持っておられます。そこには功徳水という、いくら使ってもなくならない水が入っているといわれます。
観音菩薩の性別
観世音菩薩は、「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多いのです。これは、たとえば地蔵菩薩が観音と同じ大悲闡提の一対として見る場合が多く、地蔵が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音は女性的な顔立ちの像容も多いことからそのように見る場合が多いのです。しかし、経典などでは釈迦が観音に向かって「善男子よ」と呼びかけ、また「観音大士」という言葉もあることから、本来は男性であったと考えられているのですが、観音経では「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」と、女性には女性に変身して説法するともあるため、次第に性別は無いものとして捉えられるようになりました。また後代に至ると観音を女性と見る傾向が多くなりました。これは中国における観音信仰の一大聖地である普陀落山から東シナ海域や黄海にまで広まったことで、その航海安全を祈念する民俗信仰や道教の媽祖信仰などの女神と結びついたためと考えられています。したがって、観音の性別を法華経の「変成男子(へんじょうなんし)」と関連して論じる向きもありますが、これは関係がないとされています。
六観音
観音像には、基本となる聖観音(しょうかんのん)の他、変化(へんげ)観音と呼ばれるさまざまな形の像があります。阿弥陀如来の脇侍としての観音と異なり、独尊として信仰される観音菩薩は、現世利益的な信仰が強く、そのため、あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂の超人間的な姿に表されることが多いようです。
真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音としています。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道−聖観音、餓鬼道−千手観音、畜生道−馬頭観音、修羅道−十一面観音、人道−准胝観音、天道−如意輪観音という組み合わせになっています。
なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされていますが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、唐招提寺金堂像などわずかな例外を除いて、42本の手で「千手」を表わす像が多いようでです。観世音菩薩が千の手を得た謂われとしては、伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』がありますが、この経の最後に置かれた大悲心陀羅尼は現在でも中国や日本の禅宗寺院で読誦されています。
三十三観音
法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれています。西国三十三所観音霊場、三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来するものです。「三十三観音」とは、この法華経の所説に基づき、近世の日本において信仰されるようになったものであって、法華経の中にこれら33種の観音の名称が登場するわけではありません。
以下に列挙した三十三観音の名称は、天明3年(1783年)に刊行された『仏像図彙』(ぶつぞうずい)という書物に所載のもので、この中には白衣(びゃくえ)観音、多羅尊観音のようにインド起源のものもありますが、中国や日本で独自に発達したものもあり、その起源はさまざまです。白衣観音、楊柳観音のように、禅宗系の仏画や水墨画の好画題としてしばしば描かれるものもありますが、大部分の観音は単独での造像はまれです。
三十三観音の名称
(1)楊柳(ようりゅう)
(2)龍頭(りゅうず)
(3)持経(じきょう)
(4)円光(えんこう)
(5)遊戯(ゆげ)
(6)白衣(びゃくえ)
(7)蓮臥(れんが)
(8)滝見(たきみ)
(9)施薬(せやく)
(10)魚籃(ぎょらん)
(11)徳王(とくおう)
(12)水月(すいげつ)
(13)一葉(いちよう)
(14)青頚(しょうけい)
(15)威徳(いとく)
(16)延命(えんめい)
(17)衆宝(しゅうほう)
(18)岩戸(いわと)
(19)能静(のうじょう)
(20)阿耨(あのく)
(21)阿摩提(あまだい)
(22)葉衣(ようえ)
(23)瑠璃(るり)
(24)多羅尊(たらそん)
(25)蛤蜊(こうり、はまぐり)
(26)六時(ろくじ)
(27)普悲(ふひ)
(28)馬郎婦(めろうふ)
(29)合掌(がっしょう)
(30)一如(いちにょ)
(31)不二(ふに)
(32)持蓮(じれん)
(33)灑水(しゃすい)
観音菩薩を祀る主な寺院
栃木・輪王寺(立木観音堂) ― 千手観音立像(重要文化財)
栃木・大谷寺 ― 千手観音(大谷磨崖仏)(特別史跡、重要文化財)
栃木・寺山観音寺 ― 千手観音及両脇侍像(重要文化財)
東京・浅草寺 ― 聖観音
神奈川・長谷寺 ― 十一面観音
神奈川・大船観音寺 ― 白衣観音
福井・羽賀寺 ― 十一面観音(重要文化財)
滋賀・石山寺 ― 如意輪観音(重要文化財)
滋賀・向源寺(渡岸寺) ― 十一面観音(国宝)
滋賀・櫟野寺 ― 十一面観音(重要文化財)
京都・広隆寺 ― 不空羂索観音(国宝)、千手観音(立像)(国宝)、聖観音(重要文化財)、如意輪観音(重要文化財)、千手観音(坐像)(重要文化財)
京都・清水寺― 千手観音(本堂)、千手観音(奥の院)(重要文化財)
京都・三十三間堂 ― 千手観音(国宝・湛慶作)、千手観音1,001躯(重要文化財)
京都・六波羅蜜寺 ― 十一面観音(国宝)
京都・大報恩寺 ― 六観音(重要文化財)
京都・三千院 ― 救世観音(重要文化財)
京都・観音寺 ― 十一面観音(国宝)
奈良・法隆寺 ― 百済観音(国宝)、夢違観音(国宝)、救世観音(国宝)、九面観音(国宝)
奈良・興福寺 ― 千手観音(国宝)
奈良・薬師寺 ― 聖観音(国宝)
奈良・唐招提寺 ― 千手観音(国宝)
奈良・法華寺 ― 十一面観音(国宝)
奈良・長谷寺 ― 十一面観音(重要文化財)
奈良・室生寺 ― 十一面観音(国宝)
大阪・大聖観音寺(あびこ観音) ― 聖観音
大阪・四天王寺 ― 救世観音
大阪・観心寺 ― 如意輪観音(国宝)
大阪・葛井寺 ― 千手観音(国宝)
大阪・道明寺 ― 十一面観音(国宝)
兵庫・鶴林寺― 聖観音(重要文化財)、十一面観音(重要文化財)
兵庫・神呪寺 ― 如意輪観音(重要文化財)、聖観音(重要文化財)
兵庫・斑鳩寺 ― 如意輪観音(重要文化財)
奈良・東大寺 ― 二月堂・十一面観音、法華堂(三月堂)不空羂索観音(国宝)、金堂・如意輪観音(重要文化財)
奈良・長谷寺 ― 十一面観音(重要文化財)
奈良・大安寺 ― 十一面観音、馬頭観音、楊柳観音、聖観音、不空羂索観音(以上全て重要文化財)
奈良・聖林寺 ― 十一面観音(国宝)
和歌山・道成寺 ― 千手観音(国宝)
和歌山・金剛三昧院 ― 十一面観音(重要文化財)
和歌山・補陀洛山寺 ― 千手観音(重要文化財)
福岡・観世音寺 ― 十一面観音、馬頭観音、聖観音、不空羂索観音(以上重要文化財)
観音菩薩(かんのんぼさつ 觀音菩薩)は、仏教の菩薩の一つであり、特に日本において古代より広く信仰を集めている尊格です。「観世音菩薩」または「観自在菩薩」ともいいます。「救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)」など多数の別名があります。
観音菩薩の名称の由来
サンスクリットではアヴァローキテーシュヴァラと言い、「あまねく」「見る、見た」「自在者」という語の合成語で、音韻変化を含んでいるとの説が現在では優勢です。玄奘三蔵による訳「観自在菩薩」はそれを採用していることになります。
その起源については、ゾロアスター教のアフラ・マズダーの娘、アナーヒターやインド神話のラクシュミーとの関連が指摘されています。
鳩摩羅什(くまらじゅう)の旧訳では観世音菩薩と言い、当時の中国大陸での呼称も、観世音菩薩でした。これには、観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)の趣意を取って意訳したという説があります。また、中央アジアで発見された古いサンスクリット語の『法華経』では、「Avalokitasvara」となっており、これに沿えば「avalokita 観」+「svara 世音」と解され、また古訳では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、異なるテキストだった可能性は否定できません。唐の二代目皇帝李世民の名から避諱により、”世”の文字は使用出来なくなったため、唐時代以後の中国大陸では、以後、観音菩薩と呼ばれるようになり定着しました。
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)以降の新訳では観自在菩薩と訳しています。
観音菩薩の信仰
観音経などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっています。また、般若心経の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっています。浄土教では観無量寿経の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩とともに安置されることも多く見られます。日本では飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されています。持物として水瓶(すいびょう)を持っておられます。そこには功徳水という、いくら使ってもなくならない水が入っているといわれます。
観音菩薩の性別
観世音菩薩は、「慈母観音」などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多いのです。これは、たとえば地蔵菩薩が観音と同じ大悲闡提の一対として見る場合が多く、地蔵が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音は女性的な顔立ちの像容も多いことからそのように見る場合が多いのです。しかし、経典などでは釈迦が観音に向かって「善男子よ」と呼びかけ、また「観音大士」という言葉もあることから、本来は男性であったと考えられているのですが、観音経では「婦女身得度者、即現婦女身而為説法」と、女性には女性に変身して説法するともあるため、次第に性別は無いものとして捉えられるようになりました。また後代に至ると観音を女性と見る傾向が多くなりました。これは中国における観音信仰の一大聖地である普陀落山から東シナ海域や黄海にまで広まったことで、その航海安全を祈念する民俗信仰や道教の媽祖信仰などの女神と結びついたためと考えられています。したがって、観音の性別を法華経の「変成男子(へんじょうなんし)」と関連して論じる向きもありますが、これは関係がないとされています。
六観音
観音像には、基本となる聖観音(しょうかんのん)の他、変化(へんげ)観音と呼ばれるさまざまな形の像があります。阿弥陀如来の脇侍としての観音と異なり、独尊として信仰される観音菩薩は、現世利益的な信仰が強く、そのため、あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂の超人間的な姿に表されることが多いようです。
真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音としています。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道−聖観音、餓鬼道−千手観音、畜生道−馬頭観音、修羅道−十一面観音、人道−准胝観音、天道−如意輪観音という組み合わせになっています。
なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされていますが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、唐招提寺金堂像などわずかな例外を除いて、42本の手で「千手」を表わす像が多いようでです。観世音菩薩が千の手を得た謂われとしては、伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』がありますが、この経の最後に置かれた大悲心陀羅尼は現在でも中国や日本の禅宗寺院で読誦されています。
三十三観音
法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれています。西国三十三所観音霊場、三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来するものです。「三十三観音」とは、この法華経の所説に基づき、近世の日本において信仰されるようになったものであって、法華経の中にこれら33種の観音の名称が登場するわけではありません。
以下に列挙した三十三観音の名称は、天明3年(1783年)に刊行された『仏像図彙』(ぶつぞうずい)という書物に所載のもので、この中には白衣(びゃくえ)観音、多羅尊観音のようにインド起源のものもありますが、中国や日本で独自に発達したものもあり、その起源はさまざまです。白衣観音、楊柳観音のように、禅宗系の仏画や水墨画の好画題としてしばしば描かれるものもありますが、大部分の観音は単独での造像はまれです。
三十三観音の名称
(1)楊柳(ようりゅう)
(2)龍頭(りゅうず)
(3)持経(じきょう)
(4)円光(えんこう)
(5)遊戯(ゆげ)
(6)白衣(びゃくえ)
(7)蓮臥(れんが)
(8)滝見(たきみ)
(9)施薬(せやく)
(10)魚籃(ぎょらん)
(11)徳王(とくおう)
(12)水月(すいげつ)
(13)一葉(いちよう)
(14)青頚(しょうけい)
(15)威徳(いとく)
(16)延命(えんめい)
(17)衆宝(しゅうほう)
(18)岩戸(いわと)
(19)能静(のうじょう)
(20)阿耨(あのく)
(21)阿摩提(あまだい)
(22)葉衣(ようえ)
(23)瑠璃(るり)
(24)多羅尊(たらそん)
(25)蛤蜊(こうり、はまぐり)
(26)六時(ろくじ)
(27)普悲(ふひ)
(28)馬郎婦(めろうふ)
(29)合掌(がっしょう)
(30)一如(いちにょ)
(31)不二(ふに)
(32)持蓮(じれん)
(33)灑水(しゃすい)
観音菩薩を祀る主な寺院
栃木・輪王寺(立木観音堂) ― 千手観音立像(重要文化財)
栃木・大谷寺 ― 千手観音(大谷磨崖仏)(特別史跡、重要文化財)
栃木・寺山観音寺 ― 千手観音及両脇侍像(重要文化財)
東京・浅草寺 ― 聖観音
神奈川・長谷寺 ― 十一面観音
神奈川・大船観音寺 ― 白衣観音
福井・羽賀寺 ― 十一面観音(重要文化財)
滋賀・石山寺 ― 如意輪観音(重要文化財)
滋賀・向源寺(渡岸寺) ― 十一面観音(国宝)
滋賀・櫟野寺 ― 十一面観音(重要文化財)
京都・広隆寺 ― 不空羂索観音(国宝)、千手観音(立像)(国宝)、聖観音(重要文化財)、如意輪観音(重要文化財)、千手観音(坐像)(重要文化財)
京都・清水寺― 千手観音(本堂)、千手観音(奥の院)(重要文化財)
京都・三十三間堂 ― 千手観音(国宝・湛慶作)、千手観音1,001躯(重要文化財)
京都・六波羅蜜寺 ― 十一面観音(国宝)
京都・大報恩寺 ― 六観音(重要文化財)
京都・三千院 ― 救世観音(重要文化財)
京都・観音寺 ― 十一面観音(国宝)
奈良・法隆寺 ― 百済観音(国宝)、夢違観音(国宝)、救世観音(国宝)、九面観音(国宝)
奈良・興福寺 ― 千手観音(国宝)
奈良・薬師寺 ― 聖観音(国宝)
奈良・唐招提寺 ― 千手観音(国宝)
奈良・法華寺 ― 十一面観音(国宝)
奈良・長谷寺 ― 十一面観音(重要文化財)
奈良・室生寺 ― 十一面観音(国宝)
大阪・大聖観音寺(あびこ観音) ― 聖観音
大阪・四天王寺 ― 救世観音
大阪・観心寺 ― 如意輪観音(国宝)
大阪・葛井寺 ― 千手観音(国宝)
大阪・道明寺 ― 十一面観音(国宝)
兵庫・鶴林寺― 聖観音(重要文化財)、十一面観音(重要文化財)
兵庫・神呪寺 ― 如意輪観音(重要文化財)、聖観音(重要文化財)
兵庫・斑鳩寺 ― 如意輪観音(重要文化財)
奈良・東大寺 ― 二月堂・十一面観音、法華堂(三月堂)不空羂索観音(国宝)、金堂・如意輪観音(重要文化財)
奈良・長谷寺 ― 十一面観音(重要文化財)
奈良・大安寺 ― 十一面観音、馬頭観音、楊柳観音、聖観音、不空羂索観音(以上全て重要文化財)
奈良・聖林寺 ― 十一面観音(国宝)
和歌山・道成寺 ― 千手観音(国宝)
和歌山・金剛三昧院 ― 十一面観音(重要文化財)
和歌山・補陀洛山寺 ― 千手観音(重要文化財)
福岡・観世音寺 ― 十一面観音、馬頭観音、聖観音、不空羂索観音(以上重要文化財)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
日本百観音
日本百観音
百観音巡礼とは
西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所を総合して、日本を代表する百か所の観音巡礼と称した。
『今昔物語集』巻第十六「仕観音人行竜宮得富語第十五」に、「此ノ男毎月ノ十八日ニ持斉シテ、殊ニ観音ニ仕ケリ。亦、其ノ日百ノ寺ニ詣デヽ、仏ヲ礼シ奉ケリ」と記されており、京都に百観音巡りの思想が、平安時代にはあったことを示している。
秩父巡礼が三十三所から三十四所になるにともない、百観音巡礼を主張したことを起源とする。長野県佐久市鳴滝の岩尾城跡にある大永五年(1525)銘の石碑に、「秩父三十四番 西國三十三番 坂東三十三番」と彫られており、これ以前に日本百観音巡礼が考え出されていたことがわかる。
江戸時代に入ると、下野国や諏訪などに百観音のうつし巡礼が開創されるが、主に東日本の信仰であり、西日本ではほとんど見ることはできない。
西国三十三所観音巡礼
日本における最古の巡礼であり、観音巡礼の元祖となる。
縁起によると、養老二年(718)大和長谷寺の徳道上人が没し、地獄で苦しむ亡者の姿を見た。上人は、閻魔大王から観音巡礼をすれば地獄に堕ちないという誓願を得て、三十三の宝印を受ける。蘇生した上人は巡礼の功徳を説こうとしたが、まだ機が熟しておらず、宝印を中山寺に納めた。その後、永延二年(988)花山法皇は熊野権現の神託によって、河内石川寺の仏眼上人を先達とし、性空上人らととともに巡礼を復興したという。
史実としては、『寺門高僧記』行尊伝の寛治四年(1090)の巡礼記が最初の資料となるが、疑問点が多い。確実な資料は、同じく『寺門高僧記』覚忠伝の巡礼記で、応保元年(1161)に巡礼している。山岳寺院が多く、当初は修験者が修行を目的としたと思われるが、室町時代には在家の巡礼する姿が記録されている。江戸時代になると、庶民も巡礼に参加するようになり、多数の道中記や案内書、詠歌集などが刊行された。
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坂東三十三所観音巡礼
関東一円におよぶ巨大巡礼で、西国巡礼に相対する存在である。
明和八年(1771)沙門亮盛著『三十三所坂東観音霊場記』によると、花山法皇は紀州那智山で修行の後、大和長谷寺に入って二十一日間参籠した。満願の暁に香衣の老僧が現れ、坂東八州に三十三の観音霊場があると告げる。さっそく河内石川寺の仏眼上人を先達として、辨光僧正・良応上人・元密上人・伝光僧都・満願上人・威光上人とともに、正暦元年(990)に巡礼したとされる。
福島県東白川郡棚倉町八槻の都々古別神社に残る十一面観音像に、「沙門成弁修行三十三所観音霊場之間、於八溝観音堂上院……」と記した天福二年(1234)の造像銘が最古の資料である。また、鎌倉を発願とし、安房館山を結願とする巡路から見ても、鎌倉時代に成立していたことは間違いない。館山からは鎌倉までの航路があり、まったく鎌倉本意の巡礼である。鎌倉には京都に対抗する意識があって、西国巡礼も大きな関心事だったと思われ、将軍家を含めた鎌倉武士の意向により、開創されたと推定できる。
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秩父三十四所観音巡礼
縁起によると、文暦元年(1234)に、閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現の十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが始まりという。
現存最古の資料は、法性寺蔵「長享二年(1488)秩父観音札所番付」であり、大棚観音が欠けた三十三所で、番付は定林寺から始まる。これは、現在の秩父市中心部にあたる、大宮郷の人々を対象としたものだったことを示している。十五世紀初め、大棚観音が加わることを主張して三十四所となり、その打開策として日本百観音巡礼を提唱し始めた。江戸時代に入って、札所番付を江戸向きにすることにより、我が国を代表する巡礼の一つになる。開創から江戸期までは修験者が中心だったが、その後は禅宗寺院が札所を支配し始めて、現在の形態になっていった。また、江戸時代中期ごろから、総開帳や江戸での出開帳が見られるようになり、現在も午歳総開帳がおこなわれている。
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百観音巡礼とは
西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所を総合して、日本を代表する百か所の観音巡礼と称した。
『今昔物語集』巻第十六「仕観音人行竜宮得富語第十五」に、「此ノ男毎月ノ十八日ニ持斉シテ、殊ニ観音ニ仕ケリ。亦、其ノ日百ノ寺ニ詣デヽ、仏ヲ礼シ奉ケリ」と記されており、京都に百観音巡りの思想が、平安時代にはあったことを示している。
秩父巡礼が三十三所から三十四所になるにともない、百観音巡礼を主張したことを起源とする。長野県佐久市鳴滝の岩尾城跡にある大永五年(1525)銘の石碑に、「秩父三十四番 西國三十三番 坂東三十三番」と彫られており、これ以前に日本百観音巡礼が考え出されていたことがわかる。
江戸時代に入ると、下野国や諏訪などに百観音のうつし巡礼が開創されるが、主に東日本の信仰であり、西日本ではほとんど見ることはできない。
西国三十三所観音巡礼
日本における最古の巡礼であり、観音巡礼の元祖となる。
縁起によると、養老二年(718)大和長谷寺の徳道上人が没し、地獄で苦しむ亡者の姿を見た。上人は、閻魔大王から観音巡礼をすれば地獄に堕ちないという誓願を得て、三十三の宝印を受ける。蘇生した上人は巡礼の功徳を説こうとしたが、まだ機が熟しておらず、宝印を中山寺に納めた。その後、永延二年(988)花山法皇は熊野権現の神託によって、河内石川寺の仏眼上人を先達とし、性空上人らととともに巡礼を復興したという。
史実としては、『寺門高僧記』行尊伝の寛治四年(1090)の巡礼記が最初の資料となるが、疑問点が多い。確実な資料は、同じく『寺門高僧記』覚忠伝の巡礼記で、応保元年(1161)に巡礼している。山岳寺院が多く、当初は修験者が修行を目的としたと思われるが、室町時代には在家の巡礼する姿が記録されている。江戸時代になると、庶民も巡礼に参加するようになり、多数の道中記や案内書、詠歌集などが刊行された。
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坂東三十三所観音巡礼
関東一円におよぶ巨大巡礼で、西国巡礼に相対する存在である。
明和八年(1771)沙門亮盛著『三十三所坂東観音霊場記』によると、花山法皇は紀州那智山で修行の後、大和長谷寺に入って二十一日間参籠した。満願の暁に香衣の老僧が現れ、坂東八州に三十三の観音霊場があると告げる。さっそく河内石川寺の仏眼上人を先達として、辨光僧正・良応上人・元密上人・伝光僧都・満願上人・威光上人とともに、正暦元年(990)に巡礼したとされる。
福島県東白川郡棚倉町八槻の都々古別神社に残る十一面観音像に、「沙門成弁修行三十三所観音霊場之間、於八溝観音堂上院……」と記した天福二年(1234)の造像銘が最古の資料である。また、鎌倉を発願とし、安房館山を結願とする巡路から見ても、鎌倉時代に成立していたことは間違いない。館山からは鎌倉までの航路があり、まったく鎌倉本意の巡礼である。鎌倉には京都に対抗する意識があって、西国巡礼も大きな関心事だったと思われ、将軍家を含めた鎌倉武士の意向により、開創されたと推定できる。
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秩父三十四所観音巡礼
縁起によると、文暦元年(1234)に、閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現の十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが始まりという。
現存最古の資料は、法性寺蔵「長享二年(1488)秩父観音札所番付」であり、大棚観音が欠けた三十三所で、番付は定林寺から始まる。これは、現在の秩父市中心部にあたる、大宮郷の人々を対象としたものだったことを示している。十五世紀初め、大棚観音が加わることを主張して三十四所となり、その打開策として日本百観音巡礼を提唱し始めた。江戸時代に入って、札所番付を江戸向きにすることにより、我が国を代表する巡礼の一つになる。開創から江戸期までは修験者が中心だったが、その後は禅宗寺院が札所を支配し始めて、現在の形態になっていった。また、江戸時代中期ごろから、総開帳や江戸での出開帳が見られるようになり、現在も午歳総開帳がおこなわれている。
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観音霊験記「わらしべ長者物語」
観音霊験記「わらしべ長者物語」
今は昔、初瀬(はつせ)の里に、身寄りもなく貧しい一人の若者がいた。
若者は観音さまに毎日参詣して、貧しさを嘆き、幸せにしてもらえぬうちは御前を一歩も動かぬと、一心に祈願した。
そして祈願を重ねること数年がたって、ついに観音さまからのお告げがあった。
「お前が、この寺を出たとき、最初に手にしたものが観音の賜り物と思って、すててはならぬぞ」というのである。
若者は、さっそく寺にいとま乞いをし、寺の山門を出たとたん、石にけつまずいて転んでしまった。起きあがって気がつくと、手に一本の藁(わら)しべを握っていた。
「なんだ、これが観音さまからの授かりものか」と思ったが、夢のお告げを信じて、大切に持ち帰ることにした。
そのまま歩いているとアブがうるさくつきまとう。持っていた藁でアブの胴を縛り、もう片方を棒切れに結わえると、アブは慌てて棒の周りを飛びまわる。
そこに上品な身なりの婦人が牛車に乗って道の向こうからやって来る。その一行のなかにいた子供がそれを珍しがったので、「これは観音さまの賜り物ですが、それほど欲しいのであれば差し上げましょう」と言って渡した。するとそのお礼にと、大きなみかんを三つもらった。
一本の藁しべがみかんに変わったと喜んで歩いていると、身分ありそうな人が、あまりの疲労に路上で苦しんでいる。若者が慌てて先ほどのみかんを与えると、たちどころに喉の渇きが癒え、元気が回復した。するとまたその礼にと、若者に上等の布三反を差し出した。
藁しべが布三反になったとさらに喜んでいると、今度は向こうから立派な馬に乗った人がやって来る。立派な馬に感心して見ていると、馬は急に倒れ込み、みるみる弱って息絶えてしまった。主人は仕方なくほかの駄馬に乗り換えて、後始末を供の者に任せてその場を立ち去った。そこで若者は、供の者に布一反を渡して死んだ馬をもらい受けた。
若者は直ちに手を洗い、口を漱(すす)いで身を清め、観音に向って「もし観音さまにお助けいただけるのなら、どうかこの馬を生き返らせてやってください」。そう一心に祈ると願いが通じてか、馬は息を吹き返した。そこで布一反でくらを買い、残り一反を馬草と自分の食料に換えて、京に上ることにした。
九条のあたりにさしかかると、忙しく旅支度をする家が目についた。旅に馬は役に立つ。ここで馬を買い取ってもらおうと持ちかけると、話しはトントン拍子に運んで、その家の南の田地一町と米少々とに取り換えることができた。
その後の若者は、田は人に任せ、収穫の半分を受け取り、年々財産も増え、一生を幸せに暮らしたという。
今は昔、初瀬(はつせ)の里に、身寄りもなく貧しい一人の若者がいた。
若者は観音さまに毎日参詣して、貧しさを嘆き、幸せにしてもらえぬうちは御前を一歩も動かぬと、一心に祈願した。
そして祈願を重ねること数年がたって、ついに観音さまからのお告げがあった。
「お前が、この寺を出たとき、最初に手にしたものが観音の賜り物と思って、すててはならぬぞ」というのである。
若者は、さっそく寺にいとま乞いをし、寺の山門を出たとたん、石にけつまずいて転んでしまった。起きあがって気がつくと、手に一本の藁(わら)しべを握っていた。
「なんだ、これが観音さまからの授かりものか」と思ったが、夢のお告げを信じて、大切に持ち帰ることにした。
そのまま歩いているとアブがうるさくつきまとう。持っていた藁でアブの胴を縛り、もう片方を棒切れに結わえると、アブは慌てて棒の周りを飛びまわる。
そこに上品な身なりの婦人が牛車に乗って道の向こうからやって来る。その一行のなかにいた子供がそれを珍しがったので、「これは観音さまの賜り物ですが、それほど欲しいのであれば差し上げましょう」と言って渡した。するとそのお礼にと、大きなみかんを三つもらった。
一本の藁しべがみかんに変わったと喜んで歩いていると、身分ありそうな人が、あまりの疲労に路上で苦しんでいる。若者が慌てて先ほどのみかんを与えると、たちどころに喉の渇きが癒え、元気が回復した。するとまたその礼にと、若者に上等の布三反を差し出した。
藁しべが布三反になったとさらに喜んでいると、今度は向こうから立派な馬に乗った人がやって来る。立派な馬に感心して見ていると、馬は急に倒れ込み、みるみる弱って息絶えてしまった。主人は仕方なくほかの駄馬に乗り換えて、後始末を供の者に任せてその場を立ち去った。そこで若者は、供の者に布一反を渡して死んだ馬をもらい受けた。
若者は直ちに手を洗い、口を漱(すす)いで身を清め、観音に向って「もし観音さまにお助けいただけるのなら、どうかこの馬を生き返らせてやってください」。そう一心に祈ると願いが通じてか、馬は息を吹き返した。そこで布一反でくらを買い、残り一反を馬草と自分の食料に換えて、京に上ることにした。
九条のあたりにさしかかると、忙しく旅支度をする家が目についた。旅に馬は役に立つ。ここで馬を買い取ってもらおうと持ちかけると、話しはトントン拍子に運んで、その家の南の田地一町と米少々とに取り換えることができた。
その後の若者は、田は人に任せ、収穫の半分を受け取り、年々財産も増え、一生を幸せに暮らしたという。
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