安楽寺 (上田市)
安楽寺 (上田市)
安楽寺(あんらくじ)は長野県上田市別所温泉にある曹洞宗の寺院。山号を崇福山と称します。開山は樵谷惟仙(しょうこくいせん)。本尊は釈迦如来。国宝の八角三重塔があることで知られています。
歴史
伝承では天平年間(729 - 749年)、行基の建立とも言い、平安時代の天長年間(824 - 834年)の創立とも言いますが、鎌倉時代以前の歴史は判然としていません。
安楽寺の存在が歴史的に裏付けられるのは、鎌倉時代、実質的な開山である樵谷惟仙(しょうこくいせん)が住してからです。樵谷惟仙は、信濃出身の臨済宗の僧で、生没年ははっきりしませんが、13世紀半ばに宋に留学し、著名な禅僧の蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)が来日するのと同じ船で寛元4年(1246年)、日本へ帰国したといいます。2世住職の恵仁は宋の人で、やはり樵谷惟仙が日本へ帰国するのと同じ船で来日しました。
鎌倉時代の安楽寺は北条氏の庇護を得て栄えましたが、室町時代以降衰退し、古い建物は八角三重塔を残すのみです。室町時代、天正8年(1580年)頃、高山順京(こうざんじゅんきょう)によって再興され、以後曹洞宗寺院となっています。
伽藍
著名な八角三重塔の他、本堂、庫裏、坐禅堂、経蔵、傳芳堂(文化財収蔵庫)などがあります。
八角三重塔
境内奥の山腹に建っています。昭和27年3月29日に松本城とともに、長野県内の建造物として最初の国宝指定を受けています。
日本に現存する近世以前の八角塔としては唯一のものです。(八角塔は京都法勝寺、奈良西大寺などに存在しましたが、戦乱などで失われました。)
全高(頂上から礎石上端まで)18.75メートル。構造形式は八角三重塔婆、初重裳階(もこし)付、こけら葺です。(四重塔にも見えますが一番下の屋根はひさしに相当する裳階(もこし)です。)この塔は日本に現存する唯一の八角塔であるとともに、全体が禅宗様で造られた仏塔としても稀有の存在です。組物(軒の出を支える構造材)を柱の上だけでなく柱間にも密に配する点(詰組)、軒裏の垂木を平行線状でなく放射状に配する点(扇垂木)、柱の根元に礎盤を置く点、頭貫(かしらぬき、柱頭を貫通してつなぐ水平材)の端に木鼻(彫り物)を施す点など、細部に至るまで禅宗様で造られています。内部の天井の形式や八角の仏壇も他に類を見ないものです。内部には禅宗寺院には珍しく大日如来像が安置されています。
この塔の建立年代は、従来、漠然と鎌倉時代末〜室町時代始め頃と考えられていましたが、2004年奈良文化財研究所埋蔵文化財センター古環境研究室による年輪年代調査の結果、この三重塔の部材には1289年(正應2年)に伐採した木材が初重内部の蝦虹梁に使われていることが判明しました。このことから、この塔は13世紀末、1290年代に建築されたものと考えられ、日本最古の禅宗様建築である可能性が高くなりました。
文化財
国宝
八角三重塔
重要文化財
木造惟仙和尚坐像
木造恵仁和尚坐像
重要文化財の2点は、安楽寺開山と2世住職の頂相(ちんそう、肖像)彫刻です。いずれも正応2年(1289年)の作。本堂裏にあるコンクリート造の傳芳堂に安置されています。
拝観について
3〜10月 8:00〜17:00 11〜2月 8:00〜16:00
拝観料 300円
安楽寺(あんらくじ)は長野県上田市別所温泉にある曹洞宗の寺院。山号を崇福山と称します。開山は樵谷惟仙(しょうこくいせん)。本尊は釈迦如来。国宝の八角三重塔があることで知られています。
歴史
伝承では天平年間(729 - 749年)、行基の建立とも言い、平安時代の天長年間(824 - 834年)の創立とも言いますが、鎌倉時代以前の歴史は判然としていません。
安楽寺の存在が歴史的に裏付けられるのは、鎌倉時代、実質的な開山である樵谷惟仙(しょうこくいせん)が住してからです。樵谷惟仙は、信濃出身の臨済宗の僧で、生没年ははっきりしませんが、13世紀半ばに宋に留学し、著名な禅僧の蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)が来日するのと同じ船で寛元4年(1246年)、日本へ帰国したといいます。2世住職の恵仁は宋の人で、やはり樵谷惟仙が日本へ帰国するのと同じ船で来日しました。
鎌倉時代の安楽寺は北条氏の庇護を得て栄えましたが、室町時代以降衰退し、古い建物は八角三重塔を残すのみです。室町時代、天正8年(1580年)頃、高山順京(こうざんじゅんきょう)によって再興され、以後曹洞宗寺院となっています。
伽藍
著名な八角三重塔の他、本堂、庫裏、坐禅堂、経蔵、傳芳堂(文化財収蔵庫)などがあります。
八角三重塔
境内奥の山腹に建っています。昭和27年3月29日に松本城とともに、長野県内の建造物として最初の国宝指定を受けています。
日本に現存する近世以前の八角塔としては唯一のものです。(八角塔は京都法勝寺、奈良西大寺などに存在しましたが、戦乱などで失われました。)
全高(頂上から礎石上端まで)18.75メートル。構造形式は八角三重塔婆、初重裳階(もこし)付、こけら葺です。(四重塔にも見えますが一番下の屋根はひさしに相当する裳階(もこし)です。)この塔は日本に現存する唯一の八角塔であるとともに、全体が禅宗様で造られた仏塔としても稀有の存在です。組物(軒の出を支える構造材)を柱の上だけでなく柱間にも密に配する点(詰組)、軒裏の垂木を平行線状でなく放射状に配する点(扇垂木)、柱の根元に礎盤を置く点、頭貫(かしらぬき、柱頭を貫通してつなぐ水平材)の端に木鼻(彫り物)を施す点など、細部に至るまで禅宗様で造られています。内部の天井の形式や八角の仏壇も他に類を見ないものです。内部には禅宗寺院には珍しく大日如来像が安置されています。
この塔の建立年代は、従来、漠然と鎌倉時代末〜室町時代始め頃と考えられていましたが、2004年奈良文化財研究所埋蔵文化財センター古環境研究室による年輪年代調査の結果、この三重塔の部材には1289年(正應2年)に伐採した木材が初重内部の蝦虹梁に使われていることが判明しました。このことから、この塔は13世紀末、1290年代に建築されたものと考えられ、日本最古の禅宗様建築である可能性が高くなりました。
文化財
国宝
八角三重塔
重要文化財
木造惟仙和尚坐像
木造恵仁和尚坐像
重要文化財の2点は、安楽寺開山と2世住職の頂相(ちんそう、肖像)彫刻です。いずれも正応2年(1289年)の作。本堂裏にあるコンクリート造の傳芳堂に安置されています。
拝観について
3〜10月 8:00〜17:00 11〜2月 8:00〜16:00
拝観料 300円
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
安倍文殊院
安倍文殊院
安倍文殊院(あべもんじゅいん)は奈良県桜井市にある華厳宗の寺院です。山号は安倍山。本尊は文殊菩薩。開基(創立者)は安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)です。切戸文殊(京都府宮津市)・亀岡文殊(山形県高畠町)とともに日本三文殊に数えられます。宗教法人としての公称は「文殊院」です。
歴史
大化改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の氏寺として建立されたといいます。
創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところであり、鎌倉時代に現在地に移されました。旧寺地(桜井市安倍木材団地1丁目)は「安倍寺跡」として国の史跡に指定され、史跡公園として整備されています。発掘調査の結果、安倍寺は東(右)に金堂、西(左)に塔が建つ法隆寺式伽藍配置をもっていたことがわかり、出土した古瓦の様式年代からも創建が7世紀にさかのぼる寺院跡であると見られます。「東大寺要録」巻6には、東大寺の末寺の1つである「崇敬寺」が安倍倉梯麻呂の建立であることと、「崇敬寺」の別名が「安倍寺」であったことが記載されています。
当院では陰陽師・安倍晴明が陰陽道の修行をしたともいわれ、2000年には安倍清明堂が建立されています。
境内
本堂
寛文5年(1665年)に建立された建物で、快慶作の木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像が安置されています。
金閣浮御堂(仲麻呂堂)
昭和60年(1985年)に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で、安倍仲麻呂像、安倍清明像などを祀っています。
白山神社本殿(重要文化財)
室町時代後期の建立された流造柿葺の建物で、縁結びの神として知られています。
文殊院西古墳(特別史跡)
本堂近くにある7世紀中頃の古墳で、豪族安倍(阿倍)氏一族の墓であることはほぼ確実視され、安倍倉梯麻呂の墓であるともいわれます。古墳の原状は不明だが、径25メートルほどの円墳であったと見られます。横穴式石室が露出しており、切石造石室の代表的なものとされています。
文殊院東古墳
7世紀前半に築造されたといわれる古墳で、古来から閼伽井窟(あかいくつ)と呼ばれ、信仰の対象とされてきました。
重要文化財
木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像4躯
鎌倉時代を代表する仏師快慶の作で「知恵の文殊」として親しまれています。巨大な獅子にまたがる総高約7mもある文殊菩薩像を4体の脇侍像が取り囲む文殊五尊像です。文殊五尊像の脇侍は普通、善財童子、優填王(うてんのう)、最勝老人、仏陀波利三蔵と呼ばれるが、文殊院では「最勝老人」にあたる像を「維摩居士」、仏陀波利三蔵にあたる像を「須菩提」と称しています。維摩居士像は後世の補作です。
白山神社本殿
重要文化財に指定されています。
その他の話題として電子マネーによる決済
2007年4月、全国の寺社仏閣では初めて電子マネーのEdy、iD、PiTaPa及びQUICPayを導入しました。 拝観料、絵馬奉納、お守り、祈祷料などの支払いを、本堂に設置された読み取り端末に電子マネーカードや携帯電話(おサイフケータイ)をかざすことで現金を使わず行うことができます。
アクセス
JR桜井線・近鉄大阪線 桜井駅 より奈良交通バス「安倍文殊院前」下車
安倍文殊院(あべもんじゅいん)は奈良県桜井市にある華厳宗の寺院です。山号は安倍山。本尊は文殊菩薩。開基(創立者)は安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)です。切戸文殊(京都府宮津市)・亀岡文殊(山形県高畠町)とともに日本三文殊に数えられます。宗教法人としての公称は「文殊院」です。
歴史
大化改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の氏寺として建立されたといいます。
創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところであり、鎌倉時代に現在地に移されました。旧寺地(桜井市安倍木材団地1丁目)は「安倍寺跡」として国の史跡に指定され、史跡公園として整備されています。発掘調査の結果、安倍寺は東(右)に金堂、西(左)に塔が建つ法隆寺式伽藍配置をもっていたことがわかり、出土した古瓦の様式年代からも創建が7世紀にさかのぼる寺院跡であると見られます。「東大寺要録」巻6には、東大寺の末寺の1つである「崇敬寺」が安倍倉梯麻呂の建立であることと、「崇敬寺」の別名が「安倍寺」であったことが記載されています。
当院では陰陽師・安倍晴明が陰陽道の修行をしたともいわれ、2000年には安倍清明堂が建立されています。
境内
本堂
寛文5年(1665年)に建立された建物で、快慶作の木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像が安置されています。
金閣浮御堂(仲麻呂堂)
昭和60年(1985年)に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で、安倍仲麻呂像、安倍清明像などを祀っています。
白山神社本殿(重要文化財)
室町時代後期の建立された流造柿葺の建物で、縁結びの神として知られています。
文殊院西古墳(特別史跡)
本堂近くにある7世紀中頃の古墳で、豪族安倍(阿倍)氏一族の墓であることはほぼ確実視され、安倍倉梯麻呂の墓であるともいわれます。古墳の原状は不明だが、径25メートルほどの円墳であったと見られます。横穴式石室が露出しており、切石造石室の代表的なものとされています。
文殊院東古墳
7世紀前半に築造されたといわれる古墳で、古来から閼伽井窟(あかいくつ)と呼ばれ、信仰の対象とされてきました。
重要文化財
木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像4躯
鎌倉時代を代表する仏師快慶の作で「知恵の文殊」として親しまれています。巨大な獅子にまたがる総高約7mもある文殊菩薩像を4体の脇侍像が取り囲む文殊五尊像です。文殊五尊像の脇侍は普通、善財童子、優填王(うてんのう)、最勝老人、仏陀波利三蔵と呼ばれるが、文殊院では「最勝老人」にあたる像を「維摩居士」、仏陀波利三蔵にあたる像を「須菩提」と称しています。維摩居士像は後世の補作です。
白山神社本殿
重要文化財に指定されています。
その他の話題として電子マネーによる決済
2007年4月、全国の寺社仏閣では初めて電子マネーのEdy、iD、PiTaPa及びQUICPayを導入しました。 拝観料、絵馬奉納、お守り、祈祷料などの支払いを、本堂に設置された読み取り端末に電子マネーカードや携帯電話(おサイフケータイ)をかざすことで現金を使わず行うことができます。
アクセス
JR桜井線・近鉄大阪線 桜井駅 より奈良交通バス「安倍文殊院前」下車
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
穴太寺
穴太寺
穴太寺(あなおじ)は、京都府亀岡市にある寺院。山号を菩提山(ぼだいさん)と称し、本尊は薬師如来。この寺に安置される聖観世音菩薩は西国三十三箇所第21番札所となっています。天台宗。
「あなおおじ」「あのうじ」と読まれることもあり、「穴穂寺」「穴生寺」とも表記されました。
飛鳥時代後半の705年(慶雲2年)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる丹波地方の古刹です。境内には 江戸時代につくられた本堂・多宝塔を借景にした日本庭園があります。
本堂内陣に鎌倉時代の作とされる木彫釈迦涅槃像が安置され、体の部分をさわると参拝者の病気がよくなると伝えられています。
同寺では1月3日、「福給会」が催されます。これは、300年以上続く伝統行事で、1から33番までの札3000枚を本堂から撒き、拾った番号によってくじが行なわれます。3枚だけ赤い札が入っており、それを拾った人は1年間幸せに過ごせるといいます。
文化財
本堂 - 1735年再建、京都府指定文化財
多宝塔 - 1804年再建、京都府指定文化財
仁王門 - 江戸時代中期再建、京都府登録文化財
鎮守堂 - 京都府登録文化財
念仏堂 - 京都府登録文化財
鐘楼 - 京都府登録文化財
方丈・庫裏 - 京都府登録文化財
方丈表門 - 京都府登録文化財
木造聖観音立像(伝感世作) - 国の重要文化財
穴太寺観音縁起 - 京都府指定文化財
穴太寺庭園 - 江戸時代中期作庭、京都府指定文化財名勝
穴太寺伽藍 - 亀岡市指定文化財
所在地
〒621-0029 京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46
西国三十三箇所 隣
善峯寺 - 穴太寺 - 總持寺
周辺情報
金剛寺(応挙寺)(徒歩4分)
小幡神社(徒歩3分)
穴太寺(あなおじ)は、京都府亀岡市にある寺院。山号を菩提山(ぼだいさん)と称し、本尊は薬師如来。この寺に安置される聖観世音菩薩は西国三十三箇所第21番札所となっています。天台宗。
「あなおおじ」「あのうじ」と読まれることもあり、「穴穂寺」「穴生寺」とも表記されました。
飛鳥時代後半の705年(慶雲2年)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる丹波地方の古刹です。境内には 江戸時代につくられた本堂・多宝塔を借景にした日本庭園があります。
本堂内陣に鎌倉時代の作とされる木彫釈迦涅槃像が安置され、体の部分をさわると参拝者の病気がよくなると伝えられています。
同寺では1月3日、「福給会」が催されます。これは、300年以上続く伝統行事で、1から33番までの札3000枚を本堂から撒き、拾った番号によってくじが行なわれます。3枚だけ赤い札が入っており、それを拾った人は1年間幸せに過ごせるといいます。
文化財
本堂 - 1735年再建、京都府指定文化財
多宝塔 - 1804年再建、京都府指定文化財
仁王門 - 江戸時代中期再建、京都府登録文化財
鎮守堂 - 京都府登録文化財
念仏堂 - 京都府登録文化財
鐘楼 - 京都府登録文化財
方丈・庫裏 - 京都府登録文化財
方丈表門 - 京都府登録文化財
木造聖観音立像(伝感世作) - 国の重要文化財
穴太寺観音縁起 - 京都府指定文化財
穴太寺庭園 - 江戸時代中期作庭、京都府指定文化財名勝
穴太寺伽藍 - 亀岡市指定文化財
所在地
〒621-0029 京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46
西国三十三箇所 隣
善峯寺 - 穴太寺 - 總持寺
周辺情報
金剛寺(応挙寺)(徒歩4分)
小幡神社(徒歩3分)
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
飛鳥寺
飛鳥寺
所在地 奈良県高市郡明日香村飛鳥682
位置 北緯34度28分43.14秒 東経135度49分12.64秒
山号 鳥形山
宗派 真言宗豊山派
本尊 釈迦如来(飛鳥大仏、重要文化財)
創建年 6世紀末頃
開基 蘇我馬子
正式名 鳥形山 安居院(現在の公称)
別称 法興寺、元興寺(共に旧法号)
札所等 新西国三十三箇所9番
文化財 銅造釈迦如来坐像(重要文化財)
飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺の後身です。この寺にはいくつもの呼び名があります。すなわち、蘇我馬子が建立した寺院の法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、法興寺中金堂跡に現在建つ小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)ですが、「飛鳥寺」の呼称は江戸時代の紀行文などにも見え、「飛鳥寺式伽藍配置」など学術用語にも使われています。
安居院は真言宗豊山派に属します。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子です。山号を鳥形山(とりがたやま)と称しますが、古代の寺院には山号はなく、後になって付けられた山号です。なお「鳥形山」は寺の北東、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)のある山を指します。
起源と歴史
創建
現在の飛鳥寺の前身である法興寺は、蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、明日香村豊浦の豊浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び、日本最古の本格的仏教寺院です。
『日本書紀』によると、法興寺は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものです。馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い、無事に勝利したので、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に寺を建てたといいます。
一方、天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には、発願の年は『書紀』と同じながら、内容の異なる記載があります。『縁起』によると、丁未年(587年)、「百済の客」が、当時の日本には尼寺しかなかったので、法師寺を作るべきであることを上申し、用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたといいます。(当時の日本には百済に留学した善信尼などの尼はいましたが、日本人の正式の男僧はいなかったと見られます。)
『書紀』によれば、翌崇峻天皇元年(588年)、百済から僧と技術者が派遣され、飛鳥の真神原の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこおやこのは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められました。『書紀』の崇峻天皇5年(592年)の条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とあり、整地工事や木材の調達が終わって、本格的な造営が始まったのはこの年からとする説もあります。
『書紀』の推古天皇元年(593年)正月十五日の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の正月十六日に「刹柱を建てた」とあります。なお、昭和32年(1957年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されています。
『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事があります。しかし、後述のように法興寺本尊の釈迦三尊像が完成したのはそれから少なくとも9年後のことであり、寺は完成したが、9年間は本尊が存在しなかったということになってしまいます。この点については研究者によってさまざまな解釈があり、一説には推古天皇4年(596年)にはまず塔が完成し、他の堂宇はその後順次建立されたのではないかといいます。
昭和31〜32年(1956 - 1957年)の発掘調査の結果によれば、当初の法興寺は中心の五重塔を囲んで、中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の壮大な伽藍でした。
法興寺中金堂本尊の釈迦三尊像について、『書紀』は、推古天皇13年(605年)に造り始められ翌推古天皇14年(606)完成、作者は鞍作鳥(くらつくりのとり)であるといいます。なお、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には乙丑年(605年)に「敬造」(謹んで造るの意)し、己巳年(609年)に「畢竟」(造り終わるの意)とあります。
大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も内外の信仰を集め、天武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて、朝廷の保護を受けるようになりました。これに関連して飛鳥寺近くの飛鳥池遺跡からは大量の富本銭が発見され、その位置づけを巡って(飛鳥寺との関係も含めて)様々な議論が行われています。
平城遷都以後
都が平城京へ移るとともに法興寺も現在の奈良市に移転し、元興寺となりましたが、飛鳥の法興寺も存続し、本元興寺と称されました。建久7年(1196年)の火災による焼失後、中世以降の衰退は著しく、江戸時代には仮堂一宇を残すのみでした。江戸時代の学者本居宣長の『菅笠日記』には、彼が明和9年(1772年)飛鳥を訪ねた時の様子が書かれていますが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったといいます。
現在、参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑は寛政4年(1792年)のもので、当時すでに「飛鳥大仏」と呼ばれていたことがわかります。現・本堂は江戸末期の文政8年(1825年)に大坂の篤志家の援助で再建されたもので、創建当時の壮大な伽藍をしのぶべくもありません。しかし、発掘調査の結果、現在の飛鳥寺本堂の建つ場所はまさしく蘇我馬子の建てた法興寺中金堂の跡地であり、本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、補修が甚だしいとはいえ、飛鳥時代と同じ場所に安置されていることがわかりました。日本最古の寺院・法興寺は、衰退したとはいえ、21世紀の今日までその法灯を守り続けているわけです。
札所
新西国三十三箇所観音霊場第9番
文化財
銅造釈迦如来坐像(国の重要文化財)−飛鳥寺(安居院)の本尊。飛鳥大仏の通称で知られます。
先に述べたとおり、7世紀初頭、鞍作鳥の作とされます。鞍作鳥は、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の作者である「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と同一人物とみるのが一般的理解です。
当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずですが、両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代・建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けており、当初の部分は顔の上半分、左耳、右手の第2・3・4指に残るのみだといわれます。
亀裂の入った部分を粘土で埋め、紙を張って墨を塗った部分などがあり、大幅な補修が加えられていることは確かで、当初部分がどの程度残存しているのか、正確にはわかっていません。
右手の第2・3・4指については、掌の部分にほぞ差しされていることがエックス線撮影によって確認されています。
アーモンド形の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られます。体部のほとんどが後補とみられますが、胸前に紐の結び目を表す服制は古様であり、当初像の表現を踏襲している可能性があります。
所在地 奈良県高市郡明日香村飛鳥682
位置 北緯34度28分43.14秒 東経135度49分12.64秒
山号 鳥形山
宗派 真言宗豊山派
本尊 釈迦如来(飛鳥大仏、重要文化財)
創建年 6世紀末頃
開基 蘇我馬子
正式名 鳥形山 安居院(現在の公称)
別称 法興寺、元興寺(共に旧法号)
札所等 新西国三十三箇所9番
文化財 銅造釈迦如来坐像(重要文化財)
飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺の後身です。この寺にはいくつもの呼び名があります。すなわち、蘇我馬子が建立した寺院の法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、法興寺中金堂跡に現在建つ小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)ですが、「飛鳥寺」の呼称は江戸時代の紀行文などにも見え、「飛鳥寺式伽藍配置」など学術用語にも使われています。
安居院は真言宗豊山派に属します。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子です。山号を鳥形山(とりがたやま)と称しますが、古代の寺院には山号はなく、後になって付けられた山号です。なお「鳥形山」は寺の北東、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)のある山を指します。
起源と歴史
創建
現在の飛鳥寺の前身である法興寺は、蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、明日香村豊浦の豊浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び、日本最古の本格的仏教寺院です。
『日本書紀』によると、法興寺は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものです。馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い、無事に勝利したので、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に寺を建てたといいます。
一方、天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には、発願の年は『書紀』と同じながら、内容の異なる記載があります。『縁起』によると、丁未年(587年)、「百済の客」が、当時の日本には尼寺しかなかったので、法師寺を作るべきであることを上申し、用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたといいます。(当時の日本には百済に留学した善信尼などの尼はいましたが、日本人の正式の男僧はいなかったと見られます。)
『書紀』によれば、翌崇峻天皇元年(588年)、百済から僧と技術者が派遣され、飛鳥の真神原の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこおやこのは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められました。『書紀』の崇峻天皇5年(592年)の条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とあり、整地工事や木材の調達が終わって、本格的な造営が始まったのはこの年からとする説もあります。
『書紀』の推古天皇元年(593年)正月十五日の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の正月十六日に「刹柱を建てた」とあります。なお、昭和32年(1957年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されています。
『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事があります。しかし、後述のように法興寺本尊の釈迦三尊像が完成したのはそれから少なくとも9年後のことであり、寺は完成したが、9年間は本尊が存在しなかったということになってしまいます。この点については研究者によってさまざまな解釈があり、一説には推古天皇4年(596年)にはまず塔が完成し、他の堂宇はその後順次建立されたのではないかといいます。
昭和31〜32年(1956 - 1957年)の発掘調査の結果によれば、当初の法興寺は中心の五重塔を囲んで、中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の壮大な伽藍でした。
法興寺中金堂本尊の釈迦三尊像について、『書紀』は、推古天皇13年(605年)に造り始められ翌推古天皇14年(606)完成、作者は鞍作鳥(くらつくりのとり)であるといいます。なお、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には乙丑年(605年)に「敬造」(謹んで造るの意)し、己巳年(609年)に「畢竟」(造り終わるの意)とあります。
大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も内外の信仰を集め、天武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて、朝廷の保護を受けるようになりました。これに関連して飛鳥寺近くの飛鳥池遺跡からは大量の富本銭が発見され、その位置づけを巡って(飛鳥寺との関係も含めて)様々な議論が行われています。
平城遷都以後
都が平城京へ移るとともに法興寺も現在の奈良市に移転し、元興寺となりましたが、飛鳥の法興寺も存続し、本元興寺と称されました。建久7年(1196年)の火災による焼失後、中世以降の衰退は著しく、江戸時代には仮堂一宇を残すのみでした。江戸時代の学者本居宣長の『菅笠日記』には、彼が明和9年(1772年)飛鳥を訪ねた時の様子が書かれていますが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったといいます。
現在、参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑は寛政4年(1792年)のもので、当時すでに「飛鳥大仏」と呼ばれていたことがわかります。現・本堂は江戸末期の文政8年(1825年)に大坂の篤志家の援助で再建されたもので、創建当時の壮大な伽藍をしのぶべくもありません。しかし、発掘調査の結果、現在の飛鳥寺本堂の建つ場所はまさしく蘇我馬子の建てた法興寺中金堂の跡地であり、本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、補修が甚だしいとはいえ、飛鳥時代と同じ場所に安置されていることがわかりました。日本最古の寺院・法興寺は、衰退したとはいえ、21世紀の今日までその法灯を守り続けているわけです。
札所
新西国三十三箇所観音霊場第9番
文化財
銅造釈迦如来坐像(国の重要文化財)−飛鳥寺(安居院)の本尊。飛鳥大仏の通称で知られます。
先に述べたとおり、7世紀初頭、鞍作鳥の作とされます。鞍作鳥は、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の作者である「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と同一人物とみるのが一般的理解です。
当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずですが、両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代・建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けており、当初の部分は顔の上半分、左耳、右手の第2・3・4指に残るのみだといわれます。
亀裂の入った部分を粘土で埋め、紙を張って墨を塗った部分などがあり、大幅な補修が加えられていることは確かで、当初部分がどの程度残存しているのか、正確にはわかっていません。
右手の第2・3・4指については、掌の部分にほぞ差しされていることがエックス線撮影によって確認されています。
アーモンド形の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られます。体部のほとんどが後補とみられますが、胸前に紐の結び目を表す服制は古様であり、当初像の表現を踏襲している可能性があります。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
秋篠寺
秋篠寺
所在地 奈良県奈良市秋篠町757
位置 北緯34度42分11.38秒
東経135度46分32.32秒
山号 なし
宗派 単立
本尊 薬師如来
創建年 奈良時代末期
開基 (伝)善珠、光仁天皇勅願
文化財 本堂(国宝) 伎芸天立像・薬師三尊像ほか(重要文化財)
秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院です。本尊は薬師如来、開基(創立者)は善珠とされています。山号はありません。宗派はもと法相宗、真言宗、浄土宗に属していましたが現在は単立です。伎芸天像と国宝の本堂で知られています。
起源と歴史
奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置します。奈良時代の法相宗(南都六宗の1つ)の僧・善珠が創建したとされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われていますが、創建の具体的な時期や事情については、たしかなことはわかっていません。『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入したとあるのが文献上の初見です(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。また、『日本後紀』には大同元年(806年)、桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われたことが見え、天皇家とも関連の深い寺院であったと思われます。
秋篠寺は保延元年(1135年)の火災により講堂以外の主要伽藍を焼失しました。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建っていますが、創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建です。宗派は当初の法相宗から真言宗、浄土宗に代わり、現在は単立となっています。
境内
拝観入口は東門になっていますが、本来の正門は南門です。南門と本堂の間には、雑木林の中に金堂、東西両塔の跡があり、それぞれ礎石が残っています。
本堂(国宝) - 鎌倉時代の建立で、当時の和様仏堂の代表作の1つです。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間としています。正面の柱間5間にはいずれも開口部(格子戸または窓)を設けています。全体に簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物です。内部には本尊薬師三尊像(重文)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重文)、帝釈天立像(重文)、伎芸天立像(重文)などが安置されています。
文化財
国宝
本堂
重要文化財
伝・伎芸天立像−本堂仏壇の向かって左端に立っています。瞑想的な表情と優雅な身のこなしで多くの人を魅了してきた像です。頭部のみが奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造による補作だが、像全体としては違和感なく調和しています。「伎芸天」の彫像の古例は日本では本像以外にほとんどなく、本来の尊名であるかどうかは不明です。なお、秋篠寺にはこの像と同様に、頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造の像があと3体あります。
薬師三尊像−本堂の本尊です。中尊の薬師如来が素木仕上げであるのに対し、脇侍の日光・月光(がっこう)菩薩像は彩色仕上げで作風も異なり、本来の一具ではないと思われますがいずれも平安時代の作とされています(中尊像については鎌倉時代以降の作とする見方もあります)。
帝釈天立像−頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。本堂に安置。
梵天立像−頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。奈良国立博物館に寄託。
伝・救脱菩薩立像−頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。奈良国立博物館に寄託。
木造地蔵菩薩立像−平安時代。本堂に安置。(1909年重文指定)
木造地蔵菩薩立像−平安時代。京都国立博物館に寄託。(1906年重文指定)
木造十一面観音立像−平安時代。東京国立博物館に寄託。
脱活乾漆像残欠(乾漆断片8片、心木2躯分)−奈良時代。奈良国立博物館に寄託。
木造大元帥明王立像−鎌倉時代。本堂西側の大元堂に安置。大元帥明王の彫像として稀有の作。6本の手をもち、体じゅうに蛇が巻き付いた忿怒像で、秋篠寺が真言密教寺院であった時代の作です。秘仏で、6月6日のみ公開されます。
アクセス
近鉄大和西大寺駅下車。
所在地 奈良県奈良市秋篠町757
位置 北緯34度42分11.38秒
東経135度46分32.32秒
山号 なし
宗派 単立
本尊 薬師如来
創建年 奈良時代末期
開基 (伝)善珠、光仁天皇勅願
文化財 本堂(国宝) 伎芸天立像・薬師三尊像ほか(重要文化財)
秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院です。本尊は薬師如来、開基(創立者)は善珠とされています。山号はありません。宗派はもと法相宗、真言宗、浄土宗に属していましたが現在は単立です。伎芸天像と国宝の本堂で知られています。
起源と歴史
奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置します。奈良時代の法相宗(南都六宗の1つ)の僧・善珠が創建したとされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われていますが、創建の具体的な時期や事情については、たしかなことはわかっていません。『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入したとあるのが文献上の初見です(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。また、『日本後紀』には大同元年(806年)、桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われたことが見え、天皇家とも関連の深い寺院であったと思われます。
秋篠寺は保延元年(1135年)の火災により講堂以外の主要伽藍を焼失しました。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建っていますが、創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建です。宗派は当初の法相宗から真言宗、浄土宗に代わり、現在は単立となっています。
境内
拝観入口は東門になっていますが、本来の正門は南門です。南門と本堂の間には、雑木林の中に金堂、東西両塔の跡があり、それぞれ礎石が残っています。
本堂(国宝) - 鎌倉時代の建立で、当時の和様仏堂の代表作の1つです。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間としています。正面の柱間5間にはいずれも開口部(格子戸または窓)を設けています。全体に簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物です。内部には本尊薬師三尊像(重文)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重文)、帝釈天立像(重文)、伎芸天立像(重文)などが安置されています。
文化財
国宝
本堂
重要文化財
伝・伎芸天立像−本堂仏壇の向かって左端に立っています。瞑想的な表情と優雅な身のこなしで多くの人を魅了してきた像です。頭部のみが奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造による補作だが、像全体としては違和感なく調和しています。「伎芸天」の彫像の古例は日本では本像以外にほとんどなく、本来の尊名であるかどうかは不明です。なお、秋篠寺にはこの像と同様に、頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造の像があと3体あります。
薬師三尊像−本堂の本尊です。中尊の薬師如来が素木仕上げであるのに対し、脇侍の日光・月光(がっこう)菩薩像は彩色仕上げで作風も異なり、本来の一具ではないと思われますがいずれも平安時代の作とされています(中尊像については鎌倉時代以降の作とする見方もあります)。
帝釈天立像−頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。本堂に安置。
梵天立像−頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。奈良国立博物館に寄託。
伝・救脱菩薩立像−頭部は奈良時代の乾漆造、体部は鎌倉時代の木造。奈良国立博物館に寄託。
木造地蔵菩薩立像−平安時代。本堂に安置。(1909年重文指定)
木造地蔵菩薩立像−平安時代。京都国立博物館に寄託。(1906年重文指定)
木造十一面観音立像−平安時代。東京国立博物館に寄託。
脱活乾漆像残欠(乾漆断片8片、心木2躯分)−奈良時代。奈良国立博物館に寄託。
木造大元帥明王立像−鎌倉時代。本堂西側の大元堂に安置。大元帥明王の彫像として稀有の作。6本の手をもち、体じゅうに蛇が巻き付いた忿怒像で、秋篠寺が真言密教寺院であった時代の作です。秘仏で、6月6日のみ公開されます。
アクセス
近鉄大和西大寺駅下車。
テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル : 心と身体
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