アシナヅチ・テナヅチ

アシナヅチ・テナヅチ

アシナヅチ・テナヅチは、日本神話のヤマタノオロチ退治の説話に登場する夫婦神です。『古事記』では足名椎命・手名椎命、『日本書紀』は脚摩乳・手摩乳と表記しています。

神話

二神はオオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住んでいました。8人の娘がいましたが、毎年ヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまい、スサノオが二神の元にやって来た時には、最後に残った末娘のクシナダヒメを食いにオロチがやって来る前でした。二神はスサノオがオロチを退治する代わりにクシナダヒメを妻として差し上げることを了承し、オロチ退治の準備を行いました。

スサノオが無事オロチを退治し須賀の地に宮殿を建てると、スサノオはアシナヅチを呼び、宮の首長に任じて稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)(『日本書紀』では稲田宮主神)の名を与えました。

解説

神名の「ナヅ」は「撫づ(撫でる)」、「チ」は精霊の意で、父母が娘の手足を撫でて慈しむ様子を表わすとされます。また、「アシナ」は浅稲(あさいね)で晩成の稲の意、「テナ」は速稲(といな)で早稲の意とする説や、「畔(あ)の椎」「田(た)の椎」の対であるとする説、脚無・手無と解釈して蛇神であるとする説もあります。

スサノオの宮殿があったとされる地には須佐神社(島根県出雲市)があります。代々須佐神社の神職を務める稲田氏(後に須佐氏)は大国主の子孫であり、アシナヅチ・テナヅチから数えて2004年現在で78代目といいます。

信仰

須佐神社のほか、廣峯神社(兵庫県姫路市)、川越氷川神社(埼玉県川越市)などで祀られています。

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磐座

磐座

磐座(いわくら)とは、神道的信仰の根幹にあたる信仰、巨岩に対する基層信仰の一種です。自然への信仰の例は岩以外にも、禁足地としての鎮守の森(モリ自体が神社をさし、杜は鎮守の森自身である)や山に対する信仰、火(火山)に対する信仰である三輪山や富士山などの神名火(カムナビ)、滝など多岐に渡るものです。

岩にまつわるものとして他にも磐境(いわさか)があるとされますが、こちらは磐座に対してその実例がないに等しいです。そのため同一のものと目されることもあります。日本書紀では磐座と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、「さか」とは神域との境である坂を示すようなものであると考えられます。

神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭りの中心としました。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移ろっていきました。

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アヂスキタカヒコネ

アヂスキタカヒコネ

アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神。 古事記では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、出雲国風土記では阿遅須枳高日子と表記します。また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記されます。別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)。

神話での記述

大国主と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいます。

古事記では、葦原中国平定において登場します。シタテルヒメの夫で、高天原に復命しなかったために死んでしまったアメノワカヒコの葬儀を訪れました。しかし、アヂスキタカヒコネはアメノワカヒコとそっくりであったため、アメノワカヒコの父のアマツクニタマが、アメノワカヒコが生きていたものと勘違いして抱きついてきました。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と一緒にするなと怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまいました。シタテルヒメはアヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠みました。

出雲国風土記によれば、幼い時、その泣き叫ぶ声が非常に大きかったので、静かになるまで船に乗せて八十島(日本)を巡ったり、高屋を作って梯子をかけそれを上り下りさせたりしました。天御梶日女(あめのみかじひめ)との間に雨の神である多伎都比古(たきつひこ)をもうけたとしています。


神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神です。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」はを磯城で石畳のことであるとしています。他に、「シキ」は大和の磯城(しき)のことであるとする説もあります。

アメノワカヒコとそっくりであったとの記述から、元々アメノワカヒコと同一の神で、穀物が秋に枯れて春に再生する、または太陽が冬に力が弱まり春に復活する様子を表したものであるとする説もあります。

古事記における天地を行き来する姿や激情ぶり、出雲国風土記における泣き叫ぶ声の大きさや梯子を上り下りする姿は、雷を表したものであり、アジスキタカヒコネは鋤と雷の霊力を合わせた神です。

別名は賀茂社の神の意味である。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祭っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もあります。古事記で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけです。

信仰

農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)などに祀られています。

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伊勢神道

伊勢神道

伊勢神道(いせしんとう)とは、伊勢神宮で生まれた神道の説。外宮の神職(度会氏)の間で唱えられるようになりました。このため、度会神道・外宮神道ともいいます。

豊受大神宮(外宮)を皇大神宮(内宮)と同等以上の存在であるとし、外宮の祭神豊受大神は、天地開闢に先立って出現した天御中主神および国常立神と同一であり、天照大神をしのぐ普遍的神格だとすることを特色としています。 鎌倉時代・室町時代を前期、江戸時代を後期とし、代表的な神道家として、度会家行や出口延佳などがいます。また主な経典として『神道五部書』があります。

伊勢神道家

度会行忠
度会家行
出口延佳
河辺精長
出口延経
松木智彦
田中頼庸

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秋山之下氷壮夫

秋山之下氷壮夫

秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびをとこ)は日本の神。

八十神がいとめることのできなかった伊豆志袁登売神(いづしをとめのかみ)を兄の春山霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)と争い賭けをしたこと、結局は春山霞壮夫の母親の協力により伊豆志袁登売神と結ばれなかったこと、秋山霞壮゛夫が約束をやぶって賭けを反故にしようとした時も春山霞壮夫の母親の協力をもってその賭けを成立させられたことなどが古事記の応神天皇の条に記されています。秋山下氷壮夫とは、秋の山に霜がおりている様を神格化したもの、と言われています。「春」の祭祀によって「秋」の豊穣が与えられることを象徴されています。

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荒魂・和魂

荒魂・和魂

荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことです。

荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂です。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きです。神の祟りは荒魂の表れです。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面です。神の加護は和魂の表れです。

荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、別に祀られていたりすることもあります。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきました。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっています。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされています。

和魂はさらに幸魂(さきたま、さちみたま、さきみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられます。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きです。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きです。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられます。

また、人間の心は、天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという考え方があり、一霊四魂(いちれいしこん)と呼ばれます。

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現人神

現人神

現人神(あらひとがみ)は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉です。現御神(あきつみかみ)、現神(あきつみかみ)明神(あきつみかみ)とも言います。荒人神とも書きます。

また、生きている人間でありながら、同時に神であるという語義でも用いられることがあります。

主に第二次世界大戦終結以前に、天皇の呼称として用いられました。大日本帝国が第二次世界大戦で敗戦して以降は、天皇の「人間宣言」によってその神格性は架空のものとして否定され、公の場で「現人神」と言う呼称を用いられる事は無くなりました。

ただし、このような詔書解釈には現在でも日本における右翼・保守派の一部は疑義を抱き、天皇を「現人神」として神聖視しています。

なお現人神とは、必ずしも天皇には限りません。たとえば、祭祀を通して神霊と一体となった神官が現人神として敬われることもあります。古くは現人神という生き神信仰は全国各地にあったと思われます。

ちなみに、東郷平八郎や犬養毅などは生きながらにして神と呼ばれましたが、あくまでそれは「普通の人とは比べものにならないくらい偉い人」ぐらいのニュアンスであり、彼らを正確な意味で現人神と呼ぶことはできません。

民俗学的側面
古代国家の成立において、王の権力はしばしば、神話によって装飾され、「王こそが神である」とする様式が生まれました。特に国家の規模が拡大する上で、王が神聖であれば、それを打ち倒して権力を収奪する行為は、神罰が当たる物として恐れられる事により、また人を使役する場合に於いては、理不尽な命令であっても、やはり逆らえば神罰が下るとしておけば、それに逆らう者が無くなるといった効果を期待しました。

特にこのような成立は国家という規模の発生に於いては普遍的なものであり、洋の東西を問わず似たような事例には事欠きません。よく知られた所では古代エジプトや古代ギリシア・インカ文明・西欧の王侯や貴族の制度・古代から近代までの日本に到るまで文化的な連続性が無いにも関わらず、似たような経路による発展が見られます。

これらの文明系では、王は死後に神に戻るとされ、その遺骸は恭しく埋葬され、また肉体は滅んでも精神(霊)は続くと考えられたため大規模な墳墓が残され盛大に祀られる傾向が見られます。

概念の変遷
奈良朝頃の詔(宣命)では「現御神と……しろしめす」のように「と」が付いて「しろしめす」を修飾する用例が多くあります。

『万葉集』には柿本人麻呂の歌として「皇(すめろぎ)は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほり)せすかも」とあります。

近代では例えば「国体の本義」(1935年)において次のように用いられています。

天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂(いわゆる)絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏(かしこ)き御方であることを示すのである。

1941年に文部省が発行した修身の教科書(小学校二年生用)には、「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ神ノ国」「日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤクエライ国」と書かれ、陸軍中将であった石原莞爾の『戦争史大観』(1941年)には「人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。」「現人神たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむる」とあります。本書は用紙統制・出版統制が行われている中、秘密出版ではなく、公許の物として出版された著作です。

国外の現人神
まずチベットでのダライ・ラマおよびパンチェン・ラマなどが挙げられます。またネパールのカトマンズでは特定の条件下で生まれた幼女を現人神(クマリ)として崇め神輿に乗せて練り歩くが、彼女が初潮を迎えると神としての力を失うと信仰されています。

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阿加流比売神

阿加流比売神

阿加流比売神(あかるひめのかみ)は、日本神話に登場する神です。

『古事記』では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっています。『日本書紀』では意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追いかける童女(名の記述はない)のエピソードと同一です。記紀で国や夫や女の名は異なっていますが、両者の説話の内容は大変似通っています。

神話の記述

古事記

『古事記』では応神天皇記に記述があります。

昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たりました。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産みました。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていました。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会いました。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとしました。男が釈明をしても天之日矛は許しませんでしたので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえました。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になりました。

天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していました。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきました。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるといいます。


日本書紀

『日本書紀』では垂仁天皇記に記述があります。

都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行きましたが、牛が急にいなくなってしまいました。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまいました。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けました。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になりました。

都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしましたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまいました。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったといいます。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているといいます。


摂津国風土記逸文

『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述があります。

応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいました。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けました。


『古事記』の阿加流比売神の出生譚は、女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという卵生神話の一種であり、類似した説話が朝鮮に多く伝わっています。例えば高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)や新羅の始祖赫居世、伽耶諸国のひとつ金官国の始祖首露王の出生譚などがそうです。

『古事記』に記述された「難波の比売碁曾社」に相当する神社として大阪市東成区東小橋の比売許曽神社がありますが、現在、この神社の主祭神は大国主の娘の下照比売命とされています。他に、アメノワカヒコの従者であるアメノサグメと同一視されることもあります。

『摂津国風土記』逸文の比売島と同名の姫島神社が大阪市西淀川区姫島町にあり、阿迦留姫命(神社伝承による)が住吉大神とともに祀られています。ほかに、大阪市平野区平野東の赤留比売命神社(三十歩神社)にも阿加流比売神が祀られています。

「豊国の比売語曾社」は、大分県姫島の比売碁曾社です。『豊前国風土記』逸文にも、新羅国の神が来て河原に住んだので鹿春神というとあります。

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天つ罪・国つ罪

天つ罪・国つ罪

天つ罪・国つ罪(あまつつみ・くにつつみ)とは、神道における罪の観念で、『延喜式』巻八「祝詞」に収録される大祓詞に対句として登場します。天津罪・国津罪とも書きます。

大祓詞による天つ罪・国つ罪は以下のものです。なお、大祓詞には罪の名前が書かれているだけで、特に国つ罪についてそれが何を意味するかについては、他の説もあります。

天つ罪と国つ罪

天つ罪
畔放(あはなち) - 田の畔を壊すこと
溝埋(みぞうめ) - 田に水を引くために設けた溝を埋めること
樋放(ひはなち) - 田に水を引くために設けた樋を壊すこと
頻播(しきまき) - 他の人が種を蒔いた所に重ねて種を蒔いて作物の生長を妨げること(種を蒔く事で耕作権を奪うこととする説もある)
串刺(くしさし) - 他人の田畑に自分の土地であることを示す杭を立てること
生剥(いきはぎ) - 生きている馬の皮を剥ぐこと
逆剥(さかはぎ) - 馬の皮を尻の方から剥ぐこと
糞戸(くそへ) - 祭場を糞などの汚物で汚すこと

国つ罪
生膚断(いきはだたち) - 生きている人の肌に傷をつけること
死膚断(しにはだたち) - 死んだ人の肌に傷をつけること
白人(しろひと) - 肌の色が白くなる病気
胡久美(こくみ) - 瘤ができること
おのが母犯せる罪 - 実母との相姦(近親相姦)
おのが子犯す罪 - 実子との相姦
母と子と犯せる罪 - ある女と相姦し、その後その娘と相姦すること
子と母と犯せる罪 - ある女と相姦し、その後その母と相姦すること
畜犯せる罪 - 獣姦
昆(は)ふ虫の災 - 地面をはう虫(昆虫やムカデ、蛇など)による災難
高つ神の災 - 雷など天災地変による災難
高つ鳥の災 - 空を飛ぶ鳥による災難
畜仆し(けものたおし)、蠱物(まじもの)する罪 - 家畜を殺し、その血で他人を呪う呪い(まじない)をすること

なお、『大神宮儀式帳』には川入(川に入って溺死すること)・火焼(火によって焼死する事)を国つ罪に追加しています。

天つ罪は、日本神話においてスサノオが高天原で犯したことで、農耕を防害する行為です。また、生剥・逆剥・糞戸には耕作者に不浄(不衛生な環境)をもたらしてその命を奪う呪術を兼ねているとする見方もあります。いずれにしても人為的に依らねば起こり得ない行為であり、クニ成立以前の共同体社会以来の犯罪と呼ぶべきものです。

国つ罪には、現在の観念では「罪」には当たらないものもありますが、これらは天変地異の兆し、あるいは、人が罪を犯したことによって起こる現象と説明されます。また、人間が疵を負ったり疾患にを被る(またこれによって死に至る)事や不適切な性的関係を結ぶ事はその人物の体から穢れ(ひいては天変地異)を引き起こす事になると考えられています。

天つ罪・国つ罪は宗教と政治と法制が密接であった古代日本における「罪」に対する考え方を窺い知るのに重要な考え方ですが、本居宣長以来指摘されているように天つ罪・国つ罪は宗教的に関わりの深い「罪」を挙げたものであり、これらに属しない世俗的な「罪」が存在していた事は『古事記』・『日本書紀』の中にも記されている事です。

折口信夫は、天つ罪は元は「雨障(あまつつみ)」で、梅雨の時期に農民が忌み蘢ることを指していたのですが、それが「天つ罪」とされて日本神話でスサノオが犯した行為と解釈され、それに対応するものとして国つ罪が作られたという説を唱えています。

現状
神社本庁およびその配下の神社で用いられる大祓詞では、国つ罪に差別的な表現があるとして、天つ罪・国つ罪の罪名の部分はカットされています。すなわち、現在の大祓詞で「天つ罪 国つ罪 許許太久(ここだく)の罪出でむ」となっている部分は、本来は「天つ罪と 畦放 溝埋 樋放 頻蒔 串刺 生剥 逆剥 屎戸 許多の罪を天つ罪と法(の)り別(わ)けて 国つ罪と 生膚断 死膚断 白人 胡久美 おのが母犯せる罪 おのが子犯せる罪 母と子と犯せる罪 子と母と犯せる罪 畜犯せる罪 昆ふ虫の災 高つ神の災 高つ鳥の災 畜仆し蟲物する罪 許多の罪出でむ」となっています。

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天津神・国津神

天津神・国津神

天津神(あまつかみ)・国津神(くにつかみ)は、日本神話に登場する神の分類です。

天津神は高天原にいる、または高天原から天降った神の総称、それに対して国津神は地に現れた神々の総称とされています。ただし、高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主などは国津神とされています。

日本神話においては、国津神のほとんどが天津神に支配される対象として扱われています。ヤマト王権によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神に、皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったものと考えられています。特に国津神については、日本神話に取り入れられる際に変容し、元々の伝承があまり残っていないものも多いです。日本書紀ではしきりにある文として伝承等を引用している点から、その記録文書は後世で失われてしまったようです。

「つ」は現代語の「の」のことで、天の神・国の神という意味である。「天つ神」「国つ神」と書くこともあります。漢字二字で天津神を「天神」(てんじん)、国津神を「地祇」(ちぎ)とも言い、併せて「天神地祇」「神祇」と言います。

代表的な神々
どちらにも分類されない神々、たとえば戦国武将を神格化したもの(加藤清正の加藤神社・徳川家康の東照宮)や、祟り神とされた平将門・菅原道真公の天満宮などが比較的信仰の厚い神として斎き祀られています。土着や習合された信仰であったものが神格化し、神話には登場する事のない金比羅(ことひら)信仰などもあります。

天津神
神話においてイザナギやその神子三種の神器に象徴される三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)などが代表的です。稲荷信仰の神、倉稲魂尊はスサノオの子とされ、天津神といえます。

国津神
神話においてヤマタノオロチや大国主などが比較的有名です。

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アニミズム

アニミズム

アニミズム(英:animism)は生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方です。19世紀後半、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが定着させました。日本語では「汎霊説」、「精霊信仰」などと訳されています。

霊的存在が肉体や物体を支配するという精神観、霊魂観は、世界的にひろく宗教、習俗の中で一般に存在しています。キリスト教が先進のものというヨーロッパの視点から、かつては原始的な未開社会のものであると考えられていました。

神道のアニミズム
神道では万物に(汎神論におけるように普遍の神性がというのではなく)個別の神が宿るとされています。俗にいう八百万の神とは存在の個体数ではなく極めて多いという意味の表現です。日本では、仏教などが伝来した後でも、その信仰がおとろえることはなく、あらゆる場所に神が宿る可能性が存在するという概念は、地鎮祭の慣行や神棚の設置など、また食事を残す子供に「ご飯粒を残してはいけない。一粒には(八十八の)神様が宿ってるからね。」と諭すような風習からも伺い知ることができます。単なる一神教や多神教との相違は、神性を持つ対象が森羅万象の全てである(あるいは含む)という点です。

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葵祭

葵祭

葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)は、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭です。石清水八幡宮の南祭に対し北祭ともいいます。平安時代、「祭」といえば賀茂祭のことをさしました。

石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つであり、庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となりました。 京都市の観光資源として、京都三大祭りの一つです。

葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名です。斉王代が主役と思われがちだが祭りの主役は勅使代です。源氏物語中、光源氏が勅使を勤めるシーンが印象的です。大気の不安定な時期に行なわれ、にわか雨に濡れることが多いです。

前儀
さまざまな前儀が行われますが、中でも流鏑馬神事(やぶさめしんじ)が有名です。糺(ただす)の森の真中にある全長500メートルの馬場(ばば)を、公家風の装束姿や武家風の狩装束姿の射手(いて)たちが疾走する馬上から、3つの的を射抜くというものです。 「矢伏射馬(やぶさめ)」とも書かれる流鏑馬は、その文字が示すように矢を射ることです。馬を走らせながら正確に的を射抜く高度な技術が必要とされるため、人気の行事の一つです。
雄略天皇の即位の年(457)、「騁射(うまゆみ)」を行ったと『日本書紀』が伝え、「賀茂祭に民衆を集めて騎射を禁ず」の記事が『続日本紀』にしるされるなど、古い歴史を持つ日本古来の馬術です。 射手のかけ声「イン、ヨー」とは「陰陽」のことです。 みごと矢が的中すれば五穀は稔り、諸願は成就すると言い伝えられています。 文亀二年(1502)に中絶したが、昭和48年、下鴨神社式年遷宮の記念行事として復活。「糺の森流鏑馬神事保存会」によって公家装束による流鏑馬が保存・伝承されています。

また、上賀茂神社では競馬会神事(くらべうまえじんじ)などが執り行われます。

勅使および勅使代・・・路頭の儀と社頭の儀
5月15日には平安時代の衣装を身にまとった人々が牛車とともに京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで、近衛使(かつては、近衛中将が賀茂祭の勅使として遣わされる慣例があったためです。もっとも、現在実際の天皇の使いである勅使は行列には加わらず、近衛使(勅使)代と呼ばれる代行者が行列に参加しています。)と、警備のための「検非違使尉」と「検非違使志」といった検非違使庁の官吏と、山城使(やましろのつかい、賀茂神社は、京職の管轄外で山城国の国官の管轄であったため、国府次官の「山城介」を警備と監督にあてました。)、馬寮使(左馬允という左馬寮の官吏を充てました。)、内蔵使(「内蔵助」と「内蔵史生」という天皇の幣帛を管理する内蔵寮の官吏をあてました。)による本列と女人列による路頭の儀(ろとうのぎ)下鴨神社と上賀茂神社において、勅使が祭文を奏上する社頭の儀(しゃとうのぎ)がとり行われます。

路頭の儀(行列を見る)有料拝観席(御所と下鴨神社参道)の受付→京都市観光協会

社頭の儀(儀式を見る)有料拝観席(下鴨神社楼門内)の受付→下鴨神社

斎王代
斎王(さいおう)とは、賀茂神社に御杖代として仕えるために皇室から差し出された内親王または女王のことです。
現在では京都在住の一般市民から選ばれるので斎王代(さいおうだい)となります。ただし、「一般公募」を受け付ける窓口は存在しません。

唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用、舞台化粧と同様の厚化粧をし、お歯黒も付けます。

また毎年5月4日には斎王代禊(みそぎ)の儀が行われます。 斎王代と女人たちが御手洗池(みたらしいけ)に手を浸し清める儀式で、下鴨神社と上賀茂神社両社で隔年交替で行われます。

女人列
斎王代を中心としてその周囲に女童(めのわらわ)、騎女(うまのりのおんな)、采女(うねめ)、女官、等の華やかで可憐な行列が続きます。
全員が舞台化粧と同様の厚化粧をするが、斎王代以外はお歯黒を付けません。

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相殿

相殿

相殿(あいどの。合殿とも書く)とは、主神を含めて複数の神が祀られた社殿のことを指します。
「相殿神」とは相殿に祀られる神のことですが、主神と配神とがある場合は配神のことを相殿神といいます。

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神道

神 道

神道(しんとう)は、日本の民俗的な信仰体系であり、日本固有の宗教です。

概要
日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立しました。神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範とします。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視します。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とします。他の宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間は強い連体意識で繋がっています。


分類
神道は(1)皇室神道・(2)神社神道・(3)教派神道(神道十三派)・(4)民間神道に分類できます。今日、単に「神道」といった場合には(2)神社神道を指します。また、何に重きを置くかによって、(a)儀礼を中心とする社人神道と、(b)教学を中心とする学派神道とに分けられます。

(1)皇室神道は、皇居内の宮中三殿を中心とする皇室の、すなわち天皇家の神道です。(2)神社神道は、神社を中心とし、氏子・崇敬者などによる組織によって行われる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態です。(3)教派神道は教祖・開祖の宗教的体験に基づく宗教で、他の神道とは少し性質が異なります。(4)民間神道は「民俗神道」とも呼ばれ、日本で古くから民間で行われてきた信仰行事をいいます。

なお、「国家神道」は特に1868年の王政復古の大号令から第二次世界大戦終結までの日本における国家の支援の下に行われた神道を指す名称です。教派神道の「『神道各派』から区別された神ながらの道は、とくに国家神道とも呼ばれますが、法律家や行政実務家は、以前からそれを神社と呼ぶのが例」(宮沢俊義『憲法講話』1967年)であり、戦前には単に「神社」と言えば国家に厳重に管理された「国家神道」そのものを言いいました。GHQが排したのは軍国主義の権化としての「神社」でしたが、現在では政教分離が進んで「神社」の語義が変化しており、「国家神道」を単に「神社」と称することはなくなりました。

また、次のような分類もされます。

祭り型神道
宮中神道…宮中の祭祀
神社神道…通常の神社の祭祀
民間神道…道祖神・田の神・山の神・竈神など
陰陽道系…土御門神道・いざなぎ流など
教え型神道
学派神道
復古神道…平田篤胤ら
理論神道…伊勢神道・唯一神道など
神仏習合系…両部神道・山王一実神道など
神儒一致系…儒家神道・理学神道など
教派神道
山岳信仰系…実行教・御嶽教など
霊示系…黒住教・金光教・天理教など
伝統神道系…出雲大社教・神道修成派など
新思想系…大本・生長の家・白光真宏会・世界真光文明教団・崇教真光・ス光光波世界神団・神道天行居など

由来と教義
「神道」という言葉は、中国の『易経』や『晋書』の中に見えますが、これらは「神(あや)しき道」という意味である。これは日本の神道観念とは性質が異なるものです。

日本における「神道」という言葉の初見は、『日本書紀』の用明天皇の条にある「天皇信佛法尊神道」(天皇、仏法を信じ、神道を尊びたまふ)です。このように外来の宗教である仏教と対になる、日本固有の信仰を指したものでした。『日本書紀』には渡来人執筆説があり、日本固有の信仰に「神道」の語をあてたのは、日本に仏教を伝えた中国の人々であるとする説もあります。表現や観念は『淮南子』などの中国的なものに満ちていますが、その素朴でみずみずしい話素はハイヌウェレ型神話などの世界各地に残る神話との共通性も多くあります。中国では、信仰は4段階に進化すると考えられ、仏教は一番進んだ「聖道」に達していると信じられていました。一番下の段階が「鬼道」で、『魏志倭人伝』の中にもこの語が出てきます。次の段階が「神道」です。すなわち、「神道」という語は、鬼道よりは進んでいますが、まだまだ劣っているという蔑称でした。しかし、日本ではこの「神道」という言葉に独自の解釈が加えられていきました。すなわち、神を信仰する道「神ながらの道」です。

明治20年(1887年)代になると西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始めます。明治30年(1897年)代には宗教学が本格的に導入され、学問上でも「神道」の語が確立しました [1]。

元々、神道にはイエス・キリストや釈迦のようなカリスマ的創唱者が存在しませんでした。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致が行われた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神在随 事擧不為國」(神ながら 言挙げせぬ国 柿本人麻呂、『万葉集』第13巻3253番)であったからであるとも言われています。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったとも言います。しかし、神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教の併存例は世界各地で見られるものであり、日本が特に珍しい例というわけではありません。実際には仏教公伝の当初から廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で抗争もありました。中世には伊勢神道をはじめとして吉田神道などの諸派が反本地垂迹説など複雑な教理の大系をつくりあげてゆきます。近世後期には平田篤胤がキリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想やアメノミナカヌシを創造神とする単一神教的な観念を展開するなど近代に連なる教理の展開を遂げました。近世に大きく発展した儒家神道は次第に大衆に支持基盤を得て尊王攘夷思想を広め、討幕の国民的原理ともなっていきました。近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もありましたが、結局は政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識して大日本帝国憲法でも信教の自由を認めせざるを得なませんでした[2]。もっともそれには、欧米列強に対して日本が近代国家であることを明らかにしなければならないという事情もありました。神社神道では教義を明確に統一できないことに由来する神道の「掴みにくさ」は、同時に言語に強く依存した外来の諸宗教に完全には吸収同化されない、身体感覚を重視した遠い昔からの所作の現われとして現代日本社会にもなお受け継がれています。この結果、仏教や儒教、キリスト教などの受容後も、神道的なものが日本人の精神生活に幅広く残ったのです。これらを俯瞰すると、抱擁的側面は出雲が有し、社会制御的側面を伊勢が受け持ったともいえます。

なお、神道が宗派宗教よりも民俗信仰の性質を強く残していることが、欧米など宗派宗教の存在感が極めて強い地域の住民に「日本人は無神教・無宗教である」と揶揄もしくは批判される原因になっているという指摘もあります。自らを無宗教だと考える日本人も少なくありません。しかしそれは唯一神教のみが宗教であるといった極端な立場を持つ人、あるいは近代の王政復古の大号令以後の天皇を中心とした政治体制下での神道(いわゆる国家神道)や、神道の教理についての知見の無い者に多いからでしょう。神道は唯一神教の持つ不寛容性を補完できる可能性も秘めており、唯一神教の影響下にある文明が捨て去った貴重な知的財産と見る海外研究者も少なくありません。


神道における「神」
神道は多神教ですが、祖霊崇拝性が強いため、古いものほど尊ばれます。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得ましたが、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多くあります。

気象、地理地形に始まりあらゆる事象に「神」の存在を認めます。いわゆる「八百万の神」です。この点はアイヌの宗教にも共通します。また、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習などもあります。

一方で外来の「神」も自らに取り込んでしまうという習性を持っており、ユーラシア大陸由来の原始宗教の「神」は多くが神道でも「神」として祀られています。その中には対立しているはずの「神」同士が神道の中では両立していたりします。また外来の聖者を「神」と扱うことも多くあります。この習性は近世になり、産業革命による信仰の重要度の低下と、情報伝達手段が発達したことによって薄れていきましたが、それでも本来キリスト教の要素である十字架が一般に「聖なる物」として認知されたり、月(特に新月、イスラム教)、六紡星(ユダヤ教)といった要素を「人知を越えた存在の象徴」として捉えるなどといった文化的な形で残っています。


神道の研究
平安時代以前より、出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく『出雲風土記』には他所の風土記とは違い、そういった性格を色濃く見ることが出来ます。

鎌倉時代に伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至りました。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって、知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功しました。一方で、本居宣長が江戸期には解読不能に陥っていた、『古事記』の解読に成功し、国学の源流を形成していきました。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成しました。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きく影響しました。伊勢派の果したことは、それに対抗する神道側の努力であったと考えるべきでしょう。


現代の神道
現代の神道は、延喜式(特に「神名帳」)に見られる古くから大和朝廷(ヤマト王権)が祀ってきた神々を中心に統制され、仏教や地方の神々(元は氏神など)を習合し、全国的な一大ネットワーク及び独特の世界を形成しているように見えます。また、江戸時代の儒教神道や復古神道、明治時代の国家神道の影響を強く受けています。

神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)と言い、全国の神社の大部分は神社本庁が統括しています。


皇室と神道
現在では政教分離の性質上、皇室と神道があからさまに結びつくことはあまりありませんが、歴史的事実として皇室と神道は密接なかかわりを持っています。多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているのに対し、明治以降の皇室は神道色がかなり強く出ています。また、神道の信仰の対象として天皇(その祖先神を含む)の存在があります。


参拝の方法

簡易な参拝
参拝前に、本来は神の前に向かう前に心身を清める禊が必要です。現代であれば一般参拝では入浴・シャワー等で身体を清潔にしてから参拝する心がけが望ましいです。神社に到着し、鳥居をくぐる際は「軽く一礼(会釈)」するのが望ましいです。この時に服装もきちんと整えます。次に手水を使います、これは重要な事です。神は「穢れ」を嫌います。従って拍手と祝詞を行なう手口を清める必要があります。ひしゃくで水をすくい左手、右手の順で水をかけ清めます。最後に口をすすぎます。この時口が直にひしゃくに触れないよう注意することです。最後にひしゃくを洗います、次の人のための配慮です。 巫女の補助が付く場合には、作法は巫女の指示に従ってください。

参拝の基本的な作法は「二礼二拍手一礼」です。即ち、2回礼をし、2回拍手(かしわで)を打ち、(祝詞を奏上し、)最後にもう一度礼をします。一部の神社では作法が異なっており、例えば、出雲大社や宇佐八幡宮では「四拍手」です。

現在の二礼二拍手一礼に統一されたのは明治期の神仏分離によるもので、以前は各神社によって区々でした。尚、正式な作法としては、

鈴鐘を鳴らす(邪気を払う、儀式の始まりを表す等の説がありますが、「神様が他所を向いているかもしれないので自分に注目させる」と子供向けに説明する神社もあります)
神霊に向かって拝礼(神への挨拶・背筋を伸ばし90度礼する)
賽銭を奉納する(神様への供物)
二礼二拍手一礼(礼はきちんと、拍手は胸の高さで)
とされていますが、二礼二拍手一礼と願を共にし、最後の一礼の際に居住地および氏名の名乗りと願い事を陳べるのが一般的となっています。またお礼を述べたい場合はお礼も。

御神酒を頂ける場合は頂きます。神様にお供えした御神酒を頂く事により、神様の御加護があるとされます。(ただし、その後車を運転する必要がある場合は控えること。何らかの容器に入れておき、帰宅後に頂いても良いです)

注意事項
身内に不幸が有った人は、50日間(仏式の49日)を経過するまで、神社参拝は控える必要があります。死穢の観念からです。
神棚には原則として火を通したものは上げないこと。イザナミが火の神を産んで死んだからです。(ただし、祭神や地域にもよります。穀類は例外の場合が多くあります。)失火者や放火犯もこれに準じて参拝は控えること。
山の神は血穢を忌みません。
神社本庁は、行政機関ではなく宗教法人の一つです。